本を捨てる

年末に引越しを控えているし、ガラクタ類を少しずつ捨てていかなくてはと考えている。この前の粗大ゴミの日には、15年近く使っていたソニーのシスコン、リヴァティも捨てた。多少CDの出し入れに問題があるとはいえ、まだまだ聞けた。けっこういい音出してくれたのに。あれって15万くらいしたんじゃないのかなとも思いつつ、ヤフオクで落とした中古のパイオニアFILLにとって代わられた以上、もはや無用の長物というわけだ。
さらにいよいよ本を捨てようかなとも思っていた。横浜港南台からふじみ野のマンションに越してきた時にもけっこうな量の本を捨てた。文庫にして300冊くらい、単行本も200冊くらいは捨てたんだろうな。その後はあんまり捨てることなく、今の家に持ってきたような気がする。でも、いよいよもってもう読まないだろうというような本がいい加減多すぎることに気づいてはいるわけだ。
大体において今更だよ、フーコーやマルクーゼやボードリアールもないだろう。いつか読みたい本として20代くらいに購入したものばっかりだ。あの時分の安月給で4〜5千円する本買うのはけっこうきつかっただろうに。結局こういうのばっかり、残ってしまった。それでもいざ本棚から出して20冊見当で縛ろうとすると未練が募るのだよ。多分永遠に読みっこないのにレヴィ・ストロースの『野生の思考』とかソシュールの『一般言語学講義』とか残すんだよな。
それでも今回はかって志していた政治学のお勉強のための本はほとんど捨てた。政治史も政治思想も現代政治学関連のものも軒並み廃棄。私が本を一生懸命縛っていると娘が傍らにきて「本捨てちゃうんだ」という。そして「自分のために何か残しておいてよ」と言って、「動物好きだから動物の本残しておいて」とのたまう。それで廃棄本の中からベイトソンの『精神の生態学』やローレンツの『ソロモンの指環』が生き残った。ベイトソンはともかく『ソロモンの指環』はひょっとしたら高校生くらいになったら読ませてもいいかなとも思う。なんたって「すりこみ」のこと書いてある本だもん。
映画関係の本も軒並み捨てた。悲しい気持ちで淀川長治先生の本とかも廃棄。それでも山田宏一の一連の評論とか和田誠の『お楽しみはこれからだ』とかはやっぱり捨てきれない。でも映画理論的なものはほとんど捨てることにした。
単行本でだいたい8本くらいにしたから150〜160冊くらいにはなったのだろう。それをもって上福岡のブックオフにもっていく。値段がついたのは比較的最近の横山秀夫の小説だとか宮部みゆきのものとかそんなものの類で、しめて2600円なり。「こっちの山は値段が着きませんでした、どうしますか」と言われ、処分してくださいと山に一瞥すると明らかにこっちの方が値段高そうなものばかり。ショックだったのはガルシア・マルケスとかも価値なしの山にくくられていたこと。
150冊、平均冊単価は最低でも2000円は下るまい。そうすると大体30万円くらいの書籍のほとんどがもはや無価値とされてしまったわけだ。だからブックオフは駄目なんだよと内心ぶつぶつ。でももはや機嫌悪くなる気にもならない。所詮そういうものなのだ。もっとも書籍は文化の産物だからということで、いっそのこと図書館にでも持っていけば良かったのかなという気もしないでもないが、やっぱりこういうのは精神的思い入れの強いだけのガラクタの類であるということは否めないのだろう。
家に帰ってからさらに本捨て作業を続けた。今度は文庫、新書の部類だ。これはこれでけっこう身を削るような思いだ。かなりのものを読んでいるということもある。ある意味で自分の精神形成してきた一部みたいなものだから、正直しんどかった。それでも近代文学系はほとんど捨てた。太宰、啄木、田山花袋、藤村、潤一郎などなど。もちろん徳田秋声とかは一番最初に捨てるリストに入った。
けっこうのめり込んで読んだ平野謙とか伊藤整とかも捨てた。「政治と文学」だの「私小説論争」だの「転向論」だのなんであんなに夢中になって読めたのかと思う。
さらに井上ひさしの一連の小説も廃棄。けっこう思いいれいっぱいあったのにな。
トルストイの『アンナ・カレーニナ』やディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』とかも捨てた。30前後のとき、当時つきあっていた彼女と古典文学の競争読書をしようということになって読みあっていたものだったのに。とにかく長い小説、読んでいそうで意外と読んでいないものというのが選書の第一前提だった。もはやその彼女の顔すらおぼろげではあるが、読んだ本とそれについての感想とか肴に飲んだりしたシチュエーションとかは意外なほど覚えている。未だに小説の中では最高傑作だと思っている『カラマーゾフの兄弟』もその頃読んだものだ。これもまた捨てる。
とにかく本棚から片っ端からピックアップしては30冊前後の山にしては縛る。文庫は、しかも20年からそれ以上経過している本はブックオフもっていても一切値がつくことはないだろうし、これらは資源ごみの日に一緒に文字通り捨てるだけだ。なんかつらいな〜。本当に自分の精神性を廃棄するような喪失感に苛まれる感じだ。
そうやって没価値的に本を捨て去る作業にありながら、それでも生き残る本がある。文庫の中でも例えば漱石はほとんど残した。生まれて初めて買った文庫本は小学5年か6年の時で、今はない旺文社文庫の『坊ちゃん』である。箱入りの文庫本で、本文下に細かい注があり学習用としては最適なものだったが、これも生き残った。おそよ四十年前の文庫本だ。
さらになぜか堀辰雄室生犀星もほとんど生き残った。もはや読めないだろうと思いながらなぜか感傷が勝った感じだ。父の遺品であった藤沢修平や池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズも捨てた。いつか読みたいと思っていたのだが、果たせそうにないと思ったから。同じ時代小説では司馬遼太郎ものもほとんど捨てたのだが、なぜか『竜馬がゆく』だけは生き残った。やっぱり日本人だな、竜馬好きなのだ。
大江健三郎の小説群もほとんど捨てた。『性的人間』だの『見るまえに飛べ』だの。『同時代ゲーム』も『アグイー』も。多分それらはけっして読み返すことはあり得ないだろうと。なのになぜか安部公房ものはほとんど残した。なぜだろう。いつかもう一度読んでもすんなり受け入れそうな、そんな予感があるからだろうか。
あとなぜか詩集系はすべて残った。ランボーヴェルレーヌも残った。朔太郎も藤村も高村光太郎も残った。年とるとどんどん感傷的になるということなんだろうか。買ったことすら覚えていなかったが『谷川俊太郎詩集』(角川文庫)なんてものもあった。当然残した。作業の合間に頁を開く。頁が折ってある。そこに載っているのは、予想通り「二千億光年の孤独」だった。「万有引力とは ひき合う孤独の力である」好きなフレーズだな。幾つになってもちっとも変わりはしないものだとも思うわけだ。虎の縞は洗っても落ちないように、そうそう人の感受性なんてものも変わりはしないのかもしれないとも思う。かえって涙もろくなっているくらいだから、よりしんみりしたり、よりめそめそとしてしまうかもしれない。
若い時分の頃のほうが、妙に粋がっていたのかもしれないからだ。
老後の趣味はドストエフスキーと豪語し、とにかく今は読めないけど、いつか読みたいといって読みもしない超お堅い哲学書思想書もずいぶんと買い込んだ。それらも一度リセットするわけでもないが、ほとんどぜんぶ捨て去った。若い頃に読んだ小説群もほとんど捨てる。そのうえでもう一度、本当に読みたいものを探したいとも思う。老後はもうほんの少し手前といえるくらいに近ずいてきつつある。だとすれば、その時にたぶん金銭的にも時間的にもあまり余裕のある暮らしなんかけっして出来そうにないのだろうけど、もう一度本当にその時読みたいものが見つかるかもしれないなとも思う、いやそう思いたい。もちろんその時に読みたいものが『カラマーゾフ』であればそれに越したことなしである。