芝刈り機を捨てる

今日は燃えないゴミの日だった。この前に庭造りをした時に、放置されていた手動の芝刈り機を捨てたいと思い、以前町役場でもらったゴミ捨ての小冊子に確認したところ、粗大ゴミではなく燃えないゴミの日に出せそうということだったので持っていた。
引っ越してから三ヶ月くらいしてから、ずっと手付かずだった庭の土壌改良とかいろいろやたうえで、ネットで調べた日陰でも育つというシェイディ・ローンの種を購入して丹念に種まきした。徐々に緑に変わっていく小さな庭が嬉しくてたまらなかった。最初の頃は10cm近くに伸びた芝を専用の芝鋏で刈っていたが、中腰の姿勢を続けて腰が痛くなった。それでその頃よく利用した南古谷のホームセンターで買ったのがこの芝刈り機だった。ごろごろと押しながら回転する刃が芝を刈る。あのオーソドックスな芝刈り機。ほとんど二往復もすれば、刈れてしまう小さな庭。
ときには力を入れ過ぎて芝と一緒に地面をも削ることが何度もあり今ひとつだった。削れてはげた部分のために補修をかねてまた種まきしたりを何度も繰り返した。そのうちに知人から中古の電動芝刈り機を譲り受けてからは、もっぱらそっちばかりになって。縁側のすみにずっと放置されたままになった。
庭の芝はほぼ全滅状態だったから、もうこの芝刈り機が活躍することはこと我が家にあっては有り得ないということ。無用の粗大ゴミということだ。でもこの芝刈り機を買った頃は、ある意味建てたばかりの我が家への思い入れとか、いろんな夢とかそんなものがたくさんあったような気がする。
大きなローンを抱えてしまったけれど、共稼ぎを続けていればなんとかなるだろう、いやなんとかなるはずだと信じてもいた。実際たぶん生活はうまく回っていたし、子どももやっと小学生にあがったばかり。けっこう世間的にみても中の下、いやまさしく中の中、十人並みの幸福に満ち溢れた家庭みたいなものだったのかもしれない。
いろんなものが込められた小さな手動の芝刈り機。いつしか放置され見向きもされない無用の長物となってしまった。それに付随していたはずのちっぽけな幸せの類もたいていのところ霧散してしまったのだろう、たぶん。そんな気がする。
ごみ捨て場に置いてきた芝刈り機を振り返って眺めた。ほんの一瞬だけなにか感慨みたいな思いがよぎったけれど、すぐに振り払って家に戻った。家族の朝食を作ったり、洗濯物を干したり、短い時間にやるべきことはいくらでもあるのだから。
娘を送り出して、私も会社へと向かう。電車に乗る。会社へ着き、変わりばえのしない永遠に昨日の続きのような仕事の時間を過ごす。家に帰ってからももろもろの家事とかをして、ようやく自室に戻ってから、あの芝刈り機のことを少しだけ考えている。なんとなく歌のようなものを考える。その手の感受性とは無縁だから、それはあくまで粗悪な歌のようなものでしかない。

ゴミ捨て場に
ぽつんとおかれし 芝刈り機の
ひからびた芝 我が夢の残滓なり