同一性保持権

著作権法が保護する、著作者の精神的な権利である著作者人格権の一つ。「著作物は著作者の意に反して変更、切除などの改変を受けない」(20条)と定められている。最高裁は01年、人気ゲームソフト「ときめきメモリアル」のゲーム筋書きを変更できるメモリーカードを販売した会社に対し、同一性保持権の侵害にあたるとする判決を出した。  朝日新聞3月12日夕刊19面

あほな話である。例の森進一の「おふくろさんを」を巡る騒動の一件。森進一が独自の歌詞を加えて歌っていたことに作詞者川内康範が怒り、「もうおれの歌は歌わせない」と態度を硬化し・・・・・。後はワイドショーでも見てくださいということか。
川内康範のやっていることは単なる老醜的頑迷である。耄碌した爺さんの世迷言に等しい。それに付き合わされる森進一も気の毒なことだ。さらにはJASRAC日本音楽著作権協会)が歌詞を付け加えた「改変バージョン」を「同一性保持権」侵害の疑いありとの見解を出したこともどうかと思う。
作品を世に出し、それによってなにがしかの金を得るということは、ある意味どう受容され、どう解釈され、どう消費されようと相手の自由なのではないかと思うがどうだろう。自己の作品に手を加えられることを拒絶するのであれば、いっそ世に問うようなことをやめればいいのである。これまで森進一が歌うことで、ヒットすることで相当の印税収入を得ていた作詞者が、今頃になって改変をどうのこうのというのはほとんど筋違いのことである。
もともと川内康範氏、イメージ的には奇人、変人タイプ。民族派右翼的言動もある人だったし、私のようなジジイにとっては月光仮面の原作者ということで記憶している人でもある。しかしなにをいまさらこういうパフォーマンスをというのが率直な印象だ。すでに世の中に忘れ去られた老人が頑迷な思い込みで大騒ぎしている。それにワイドショー的マスコミが単に面白いから付き合って持ち上げている。ジイさんそれで図にのってしまった。まあ、そんな図式なんだろうな。だいたい川内康範、なんだよ生きていたのかみたいな感じだったものな。
そして本題だ。世に出された作品は、その作者等のクレジットが明記され、使用料等がきちんと払われていれば、どのように改変されようともそれは演奏者の勝手なのである。著作権者の同一性保持権とやら拡大解釈されたならば、例えば音楽の世界からアレンジという創造的活動は一切認められなくなる。演奏者の解釈による自由な演奏はすべて否定される。ジャズやロックにおけるインプロビゼーション、所謂アドリブというものはすべて排除される。音楽はすべて著作権者の同一性保持権に基づいて楽譜通りに演奏されることが義務付けられる。
ありえない話である。我々はグレン・ミラーの軽快なアレンジで「茶色の小瓶」を楽しんできた。あのグレン・ミラーサウンドはどうなるのか。ドン・セベスキーやクライス・オーガーマンの美しいストリングスアレンジはどこへいってしまうのか。もしジョセフ・コズマが名曲「枯葉」の同一性保持権を徹底的に主張していたならば、マイルスやビル・エバンスの名演奏が存在したのか。音楽だけじゃないぞ。絵画にあっても模倣や習作、そこからインスパイアされた傑作はいくらでも存在する。それらはどうなってしまうのか。
川内康範は森進一のなにが気に食わなかったのか。たぶんたいしたことじゃないのだろうと思う。でもだ、もう森に自分の歌を歌ってもらいたくないと思ってもだ、さんざ森が歌うことでの恩恵を預かってきたんだよ、このジイさんは。百歩譲って著作権者の権利振り回すのなら、過去に遡って「おふくろさん」のヒットで懐にはいった印税をすべて森なりに返却すべきだよ。そもそもこの歌は川内康範の作だからヒットしたんじゃない。演歌のスター森進一が歌うことでヒット作となったんだから。
晩節を汚す。川内の今やっていることっていうのは、まあそういうことなんだろうな。それにつきあわされる森進一、JASRAC、関係者、みんなご苦労様なことだと思う。しかしだ、著作権者の権利を守るためためとはいえ、行過ぎた保護は作品の受容、解釈の自由を奪うことにしかならんと思う。著作権はもっと経済的な部分に限定されて適用されるべきだと思う。今回の件についても森進一がきちんと使用料を払い、レコード印税等を払っているのなら、改変をどうのこうのということにはならないと思う。川内康範のオリジナル「おふくろさん」と森進一的世界による改変ヴァージョン「おふろさん」は同等の価値を有するというのが原則なのだと思うのだが、どうだろう。