『絶版』『重版未定』本をオープンに

 『新文化』2月28日号一面に植村八潮氏が「『絶版』『重版未定』本をオープンに」という長文を寄稿していた。植村氏は元東京電機大学出版局長、長く出版社団体間で電子出版のプラットフォームに関わり、有力出版社が集い、産業革新機構も参加した官民共同会社出版デジタル機構の初代社長を務めた人物である。現在は専修大学で出版論についての講座をもつ大学教授である。

植村八潮 - Wikipedia

 今回の寄稿分は、結論的には「毎年5万点もの『入手不能作品』が生じている」ことへの問題提起と、その主たる理由は出版社による恣意的理由による重版をしないことによることとしている。曰く出版社が出版権を放棄し消滅した「絶版」と、出版権を保持したままの「品切・重版未定」、この二つにより本が重版されないまま放置されていく。

 絶版であれば、別の出版社が著者と交渉して再刊することは可能だ。しかし「品切・重版未定」は出版社が出版件を保持したままのため、他社からの再刊はできない。これは出版権は保持したまま、何かのタイミングでその本や著者にスポットライトがあたった場合は重版したいという、出版社にとって都合の良い、まさしく恣意的な仕組みなのだ。

 しかし、多くの場合その「何かのタイミング」はないため、ずっと「品切・重版未定」状態は続く。その間に出版社も代替わりをし、まったく畑違いのジャンルにシフトすることもあるかもしれないし、それ以前に倒産や廃業もある。また長い時間の経過の中で著者もまた逝去するなどして権利所在が不明になる場合もある。

 昨今、TPPの関連で著作権保護期間は50年から70年に伸びた。これは主にはアメリカの大資本のアニメ・キャラクターの権利保護が理由といわれるが、これによりこれまで著者没後50年でパブリック・ドメイン化が進み、青空文庫などボランティアにより著作物の電子テキスト化が進んでいたが、これにも歯止めがかかることになった。とはいえ、著作権保護期間が伸びたとしても、「品切・重版未定」のままでは、著者や出版社の権利は守られているとはいえ、読者=消費者には何の便宜性がないのである。重版されなければ、入手は不可能なのだから。

 植村氏の提言は簡単にして直裁だ。「本が売れないなら、入手できないなら、権利者不明になるくらいなら、出版社と著者は何をすべきか-オープン作品とすればよりのだ」という。要するに出版権、著作権を保持したまま、誰にでも自由に利用を認めしまえばいいということだ。端的には電子テキスト化を自由にさせてしまえば、それはダウンロードして自由に電子端末で読むことが可能となる。もし、それをオンデマンドで商用出版する、あるいは別の出版社が再刊するとなれば、相応の使用料なり印税なりを払えばいいということだ。

 植村氏の主張は単純明快だが、伏魔殿のごとき出版社の恣意的権利関係にあっては暴論とでもいうべきことになるのだろう。出版社は出来るだけ自らの出版件を維持したい、でもさほど売れる見込みがない本をおいそれとは重版できない。絶版にするには惜しいが重版は出来ない。そこから出版社にとってはたいへん便利な「品切・重版未定」という運用が始まった。

 著者には「先生、今はちょっと重版難しい。でも近い時期に重版を予定していますので、お待ちください」とだけ伝えておく。そういうことが悪習慣のまま続いてきたのだと思う。

 植村氏の主張にさらに付け加えるならば、「絶版」でもなく「品切・重版未定」でもない、著作権フリーについていえば、そのルール化ということかもしれない。例えば品切状態が

通算して5年続いた場合は、著作権フリーとする。それは絶版による出版権の消滅でもなければ、著作権放棄によるパブリック・ドメインでもないということだ。

 以下、気になった部分をメモ代わりに引用する

 品切になっている本を出版社が重版してくれないことで困っている著者に植村は「

自分で他の出版社に売り込むとか、電子書籍化して青空文庫にあげたらどうですか」と提案する。

すると、「そんなことはできません。品切れしても、ちゃんと出版契約書に契約期間が書かれており、縛られているのです」と話す。

 もちろん、著者が要求するのに重版しないのは、契約以前の法の問題である。それについては文化庁の「著作権なるほど質問箱」に、次の解説がある。

 「出版権者は慣行に従い継続して出版する義務があります(第81条第2号)。なお、出版の義務違反の場合には著作権者は出版社に通知して出版権を消滅させることができます(第84条第1項)。また、「継続出版義務違反」の場合は3ヵ月異常の期間を定めて出版を催促する手続を経たうえで、それでも出版されない場合には出版社に通知して出版権を消滅させることができます」(第84条第2項)」。出版社が重版しない場合、その出版社の出版権は消滅するのだ。

 

 かって出版社は自社の出版権を維持するために、単行本を積極的に文庫化した。もちろん文庫というパッケージをもっている場合だが。現在はそれに代わるものとしてオンデマンド出版がある。いったん電子テキスト化し、校正を施したPDFファイルを作ってしまえば、読者の求めに応じて1冊ごとに小部数印刷が可能だ。しかし、この電子テキスト化にもそれ相応のコストが必要なためそう簡単になんでもオンデマンドが出来る訳でもないのだ。

 そうなると結局のところ、様々なIT技術があったとしても、結局のところ「売れない書籍」は品切のまま放置されてしまう。そして必用とする読者がそれを入手したくてもできない状態が続くのである。

 かといって出版社も、特に長い歳月を費やして刊行した専門書のような場合には、いったん品切になったからといって、おいそれと著作権フリーという訳にもいかないだろうという事情もわからないでもない。

 この問題は奥が深い。出版業は文化事業という側面ももちつつも、しょせんは営利事業である。出版社もそう簡単には自社の権利を全面的に放棄することは出来ないかもしれない。同様に著作権者もまた簡単に著作権放棄ということは難しいだろう。

 しかし出版物という知的財産がきちんと読者によって享受されるということを前提にした時に、単に権利だけを振り回して、読者のニーズ、欲求を阻害していいものかどうか。

 同じ文の中で永江朗氏の言葉が引用されているが、本は『所有』されるものから『体験』され『消費』される情報に変化しているという。それはまちがいなく紙の本というモノから電子テキスト化された情報となることである。出版社は自社で情報化させることが難しいのであれば、それをフリー作品として他社に委ねる寛容さをもつことも必要になるのではないかと思う。