介護生活への短感

妻が退院して以来、めっきり書くことが少なくなってきている。なぜ、時間がないから。それが一番だ。それと同時に、介護生活のシビアさを実感するとともに、あまりにも私情的な愚痴が増えつつあることに危惧をもっている。どこかでそういう自分を他人事のように見つめるべき視点が欠如しつつあるなと思っている。それは少しばかりやばい状態でもある。
妻のことが正直負担にもなりつつある。妻のちょっとした失敗にも目くじらたててしまう狭量な自分がいる。どうにもいきずまって気持ちのまま子どもにさえあたってしまうしょうもない自分がいる。それでもいろいろと妻のために、子どものために優しく、気をきかして細々動いている自分もいる。妻は、発病二日目の脳浮腫による手術の際にはほとんど死の淵を彷徨ったと聞いている。文字通り生還したのだ。妻に対して私は言う。片麻痺であれ、注意障害であれ、生き残ったんだからそれでいいじゃないかと。それも正直な気持ちだ。
それでいて妻のささいな失敗や注意障害のもろもろからくるおかしな行動に対しては、ようしゃなく非難を浴びせてしまうこともある。娘は親を見ている。だからだんだんと私と同じように母親を叱責するような口調が増えてきた。こういうのはまずいよなとも思う。妻にとってもは私から怒られ、娘からも叱られでは立つ瀬がないところだろう。それでいて意外とけろっとしている部分にも、なんとなく障害の影響を疑わせる部分がある。医師や療法士からは一度も言われたことがなかったが、ひょっとすると情動部分にもある種の障害が見られるのではとも最近は疑うようになった。
国リハの主治医からは注意障害についてのみいろいろと指摘を受けた。それも半年に及ぶ入院生活でだいぶん改善されたと聞いてはいた。でもやっぱり近しく生活を共にしていると病院で短時間接しているだけではわからない部分をいろいろと感じるようにもなった。このへんのことも客観的に見れない部分でもある。なぜか様々なことの後始末がぜんぶ自分に関わってくるからだ。
とにかくどこかでもう一度、介護者としての自分を再構築しないとあかんな〜とも思う。もう少し肩の力を抜く、手抜きに手抜きをして、基本的には優しい、そんな生き方、そんな接し方が必要なんだろうと思うのだが。