一昨日の保育園のコンサートでの河合酔茗の詩の朗読がきっかけになったのか、昨日、今日とずっと詩のことを考えている。高校生から浪人の頃にはずいぶんと詩集とかも読んだのに、覚えているものがほとんどない。青臭い子どもだったから、自分でもしょうもない詩作とかしたこともあるにはある。でも、当然のことながら自分には詩人の感性、閃きも、言葉を操る力も何一つなかったな。それがすぐにわかったものだから、良き読み手になりたいとも思ったものだった。どうもその才能もなかったようで、良き読み手にすらなりえなかった。
ずいぶんと詩集を集めていたはずなのに、今本棚を見渡してもほとんどが散逸してしまったみたいだ。目についたのは室生犀星の『愛の詩集』(角川文庫)昭和49年12月24刷。犀星は、18〜19歳の頃一番愛読していたような気がする。抒情的でみずみずしい感性が発露された詩や小説をずいぶんとのめり込んで読んでいたような記憶がある。試みに折り目がついたページにあるのは、たぶん当時のおそらく浪人時代の自身が感じていた疎外感を投影したような短詩だ。
詩一つ 寂しくなると街へ出た そこには美しく優しいものが いつも群れをつくって歩いていた あたかも私だけを外側にのこして のけものにして
今となってはあまりにもストレートで、さほど特色のある作品とは思えない。でも、この詩が当時の自分の心情には見事に合致していたんだろうな。
あと、黒田三郎、あの『紙風船』の作者の詩の断片をずっと覚えているのだが、なんというタイトルかを忘れてしまっている。確かこんな風にはじまる詩だったんだが。
さきに帰って ユリの面倒みてね 今日は私がデモに行くわ 共稼ぎの妻が言う 買い物と繕い物と ・・・・・・・・・・・・・・
う〜ん、この後がどうしても思い出せない。持っていたはずの黒田三郎詩集もなくしてしまったみたいだし。アマゾンあたりでまた購入してみようか。