『新しいリハビリテーション 人間「復権」への挑戦』

 

まだ読みかけの本だが、とりあえず現段階での感想を書く。
 国立長寿医療研究センター老人ケア研究部部長である現職リハビリ医による新しいリハビリテーションに対する実践と提言。正直目から鱗という感じでいろいろと参考になることが多かったし、リハビリテーションとはこういうものなのだという認識を新たにできた。
 それは一言では言い表せないけれど、リハビリテーションとは本来「人間らしく生きる権利の回復(全人間的復権)」という意味であり、生活と人生をよりよいものにすることが目的だとしている。そのためにはこれまでの訓練室での機能回復型訓練から生活の場としての病棟での活動向上訓練中心のリハビリをすすめることを強く主張している。そのスローガンとなるのが、車椅子偏重からの脱却だ。
 活動向上訓練の具体的な手法として、脳卒中片麻痺のある患者に対してのリハビリ計画を以下のようにすすめている。

 山本さんの場合は、毎日の生活で必要な行為に重点をおいてはじめました。それは歩いて洗面所まで行くこと、洗面所で立ったまま歯を磨いたり顔を洗ったりすること、トイレまで歩いていって排泄することの三つです。これらをそれぞれの実際の場で、理学療法士作業療法士がついて練習するのです。練習の時だけでなく、実際の生活でも看護師が介助して歩いていって立ってするようにしました。
 こういうやり方を「活動向上訓練」といいます。これは「活動」(目的をもった行為)に直接働きかけてそれを向上させるもので、従来の機能回復訓練、つまりまず身体の働きをよくして、それから活動を向上させようとする方法よりもはるかに効果的で、進歩も患者さんが実感できるぐらい早いのです。

 もちろん片麻痺で車椅子生活を送っているような患者がすぐに歩行できるわけではない。しかし装具の利用、介助者がつくこと、つたい歩きの方法、また立って歯磨き、洗顔するためのバランスのとれる立ち位置なども専門家が細かく指導していくことで可能になるという。
 この活動向上訓練をささえる具体的な方法としては、患者の活動能力を「模擬動作」「できる活動」「している活動」の三つに分け、「している活動」の向上を目指すことを最優先にしていくという。

 リハビリテーションでは、「模擬動作」、「できる活動」、「している活動」の三つに分けて考えます。江島さんの例でいえば、訓練室で歩けたのは「模擬動作」、居室棟での実用歩行訓練の時の歩行は「できる活動」で、居室棟での実用歩行は「している活動」です。
 もう少し一般的にいうと、日常での生活行為が「活動」で、その活動の一部をなすのが、「模擬動作」です。そして「活動」にも二種類あり、練習の時や診察の時にできる活動は「できる活動」、日頃の日常生活として行っているのが「している活動」です。
 歩行と同様に食事についても、訓練室で箸で豆をつまむことは「模擬動作」の練習で、それが上手になったとしても、実際の食事の時に麺類を食べたり、魚の小骨を取ったりする「している活動」がうまくできるわけではありません。また服を着替えることにしても、作業療法士がついて、時間をいくらかかってもよく、しかもゆるやかな訓練用の服で練習するのと、日常生活の朝せわしい時間帯にぴったりした服で着替えるのとではまるで違います。

 こうした考えのもとに、従来のまず車椅子中心での機能回復訓練、生活向上訓練、その次に歩行訓練、立位での生活向上訓練という現在のリハビリのプロセスを時間のロス、あるいは車椅子操作をマスターしても歩行には役立たないという観点から、車椅子訓練のプロセスを一足飛びにして歩行訓練、立位による日常訓練を提唱する。

 たとえば、手の動きは微妙に全身のバランスに影響し、健常な人はそれに合わせて無意識のうちに重心を移動させたり体のバランスをとっているのですが、片まひの人は手の動きによるバランスのとり方を意識的に学習しないと、手を動かしただけで体のバランスを崩して倒れてしまいます。しかも「自立」ということは、それを自然に行えるところまでマスターするということですから、相当な時間と努力を必要とします。
 ですから、車いすに座ってするやり方をまずマスターし、その後それをやめて、立ってするやり方を新たにマスターするというのは患者さんと専門家の両方にとって時間と努力の無駄なのです。
 これは単なる理屈ではありません。私たちの研究でも、脳卒中で片まひになった患者さんは、いったん車いすの自立という段階を経るやり方をすると、はじめから歩行と立位での活動に向けたリハビリテーションをした場合に比べて歩行自立までの期間がずっと長くなるだけでなく、歩行の自立度も自宅に帰れる率も低いレベルにとどまることが明らかになっています。

 こういうところが本当に目から鱗だ。正直、著者の理論に基づいた訓練指導を行っているリハ病院に妻を転院させたいと思うくらいだ。この著者のリハビリについての考え方と実践は、現在の国が推し進めている障害者の在宅生活を基本にした自立支援策のバックボーンになっているような気もしないでもない。障害者は活動向上訓練をすすめて在宅で新しい生活をはじめるべきだという方向性だ。でも、このバラ色のリハビリ理論にはどうにもうなずけない部分があるようにも感じるのだ。それはリハビリのコスト面がすっぽり抜け落ちているように感じられたからだ。

 実用歩行訓練をはじめとする活動向上訓練が不十分なために、本来なら歩けるはずの人を歩けないままにとどめてしまう、それどころか現に歩いているひとまで「危ないから」と車いすに乗せられて、その結果歩けなくなる、という「作られた歩行不能」とでもいうべき状態になっているのです。

 確かに現状はそのとおりなのかもしれない。でも、この車椅子を偏重する安全主義は実は現在の医療の人手不足、あるいは十分な人手をかけるだけの金がないことにあるのではないかとも思うのだ。病棟内での生活向上訓練の一貫として歩行による歯磨き洗顔、排泄を行うためには、患者一人に対して一人の介助者が必要になる。国際医療センターや国リハでの少ない見聞ではあるが、病棟内では看護師一人が患者を3〜4名みているというのが現状だ。実用歩行訓練を中心に行った場合、看護師を相当数増員しなければ、それこそ目を離したすきに転倒事故などがおきた場合の責任問題等が発生することになる。
 また、現在の訓練室中心でリハビリを行うのは、訓練室で集中して行うことにより、より少ない人数の理学療法士作業療法士で多くの患者に訓練を行うことができるからではないかと思うのだ。大川氏のリハビリ理論では各病棟に最低でも数名の療法士をおく必要がでてくる。そのコストは自己負担として患者に転化するのか、あるいは社会保障費の一貫として捻出できるのかどうか。
 この本に出てくる患者の症例では、自宅での生活が可能になっている。しかし、この人たちの経済的なバックボーンについては特にふれられていない。しかし障害者が自宅で例えば主婦をする場合に、配偶者の負担がどのくらいのもになるのか、障害者を支えるための経済的なコストがどのくらいになるのかもまったく不明なままだ。この本にも出てくる障害者となったため仕事を辞めて書道教室を開く患者の例だが、どのくらいの収入減となったのか、またそれを可能にするだけの蓄えがあったのかどうかという点についてはまったく不明だ。
 病気は、障害は、ある意味ではすべて個々である。経済的な環境、社会的な環境、病気の個体差、すべてが個々なのである。それをまず在宅生活ありきや自立を前提として方法論を展開していくのはなかなか困難なことなのではないかとも思うのだ。個々の部分に応えられるだけの様々なサービス、社会保障制度や医療制度、施設が前提としてあるのかどうか、ようはそこにかかっているような気がしてならない。
 リハビリのソフトウェアとしてこの書はすばらしい方法論を提示してくれている。しかしだ、そこから透けてみえるのは、実はハードウェアとしての現在の医療制度のあり方であり、まだまだ不十分な介護保険サービスであり、障害者自立支援のための様々な施策でもあると思うのだが、どうだろう。