日々、中国ディスる情報が垂れ流される

 毎日、中国や韓国をディスる情報がワイドショーやニュースショーを通じて垂れ流されている。特に中国の民度の低さ、モラルの低さを上から目線で嘲るような報道が本当に毎日流されている。

 朝、9時までに徒歩5分の道のりを会社に行けばいいので、けっこうな頻度でワイドショーとかをながら見していることが多い。するともう本当に嫌になるくらいに、中国の民度、モラルの低さを紹介していることが多い。もううんざりしてっくる。

 こういうのを見ていると、自然と中国への反感というか、そういう意識を持つ人が多くなるだろうとは思う。同様に韓国に対しても最近は、徴用工問題や従軍慰安婦問題等を通じて、同様に韓国に対する否定的な情報が流されている。

 毎日そういうのを見ているから、うちのカミさんなども風通に「中国って本当にダメ」みたいな話を言ってくる。その都度、中国人にも高い教育をもった裕福な人々が沢山いる。今、日本に来てよろしくない行為をする人たちは新興中産階級だし、そういうところだけみて全部の中国人がダメということを言ってはいけない的なことをその都度反論している。

 実際、そういうモラルが低い中国人観光客は確かに沢山日本に来ているだろう。でもね、かっては日本人も同様だったのだよ。農協観光とか、韓国や東南アジアに買春ツアーに行くオッさんたちと、あちこちでモラルに欠ける、よろしくないことしてたのが日本人だった時代もあるのだから。

 そのうえで、こういう中国ディスる報道が続くのは、経済大国となった中国に対するコンプレックスの裏返しなんじゃないかと、そんなことをカミさんにまくしたてることも多々あったりする。

 実際のところだが、中国の富裕層や教育が行き届いた人たちは、多分礼儀正しいし、母国語と同じくらいに英語も流暢にこなし、モラルもわきまえている人たちが多い。

 数年前だったカミさんと二人で京都に行ったときでも、バリアーだらけの名所寺跡で車椅子のカミさん押して苦労しているときに、なんにも言わず手伝ってくれたのは圧倒的に中国人だったりとか、そういうのに何度も遭遇している。

 なので今日もモーニングショーを見ていて、中国の旧正月のニュース紹介しながら、やっぱり中国人をディスっていたとき、コメンテーターの玉川氏がこんな小気味良いことを言っていた。まあ流して聞いていたので、後でそれを玉川氏の言葉を紹介するサイトがあったので、それを読んで本当に得心した。

lite-ra.com

 少し長いけど引用する。

「『中国でこんなにモラルが低いですよ』っていう話いっぱいあるじゃないですか、うちの番組も含めて。それってやっぱり中国に対して恐れを抱いてるんでしょうね。今まではずっーと下に見てきたんだけどもう抜かれてるし経済では、どんどん置いて行かれるんじゃないかっていう、その意識が、『中国こんなにまだ下だよ』っていうのをやりたくてしょうがなくなっちゃう意識っていうのがあるのかなって僕には思うんですよ」
「さっき数の話が出ましたがすでに中国って富裕層だけで日本に匹敵するくらいいるんですよ。中間層が3億人いるんです、そういう人たちがどんどん海外旅行とか、日本にも来るじゃないですか。そうすると日本を含めた先進国のモラルをこうやって見て、国に帰るわけですね。そうすると自分たちが中国でやってることがやっぱりちょっと遅れているんだって彼らはだんだん気づきはじめるに決まっているんです。そうするといつの間にかモラルだって上がっていくはずなんですよね。でも今はそうじゃないっていうことを見たくてしょうがないんですよね、日本人は。それで安心だ、安心だと思おうとしている心理が、ディレクターの中にすらある」 

  しかし玉川氏の言う通りである。3億人の中間層が海外に頻繁に出ることによって、各国のモラルを学び、自国に生かすことになったら。中国は経済的にも恵まれ、精神性も豊かになっていく。東洋の大国として世界に冠たる国になる可能性は、その国力からいってきわめて高いかもしれない。

 そうなると日本はというと、もともと文明の伝播という意味では中華文明を享受する辺境地域でもあったのである。朝鮮とともに中国の影響を受ける辺境の隣国という地位になるかもしれないなとも思う。まあ2000年来ずっとそうだったのだし、近代のわずかな時間、中国が失速したのに乗じて数十年の間、アジアで覇権を主張していただけに過ぎないのだから。

 まあこのへんは歴史的必然、人口、人文地理的観点、経済性、様々な部分で致し方ないのではと思う。もう悔し紛れにディスるのはやめたほうがいい。

労基署へ行く

 労働基準監督署に相談に行ってきた。

 これまでも労基署には就業規則の変更届けとかで年に1〜2回は行くんだが、今回は労働相談で。

 普通、労働相談というとたいてい労働者が相談に行くんだが、会社側がまあ行ってもいいのではある。

 昨年からずっと、やっかいな案件を抱えていて、まあいわゆる問題社員みたいなことなんだが、下のものにまかせていたんだが、勉強不足や経験不足でまともに対峙できないでいた。とはいえ自分が全面に出るのもなんなんで、まあ資料作ったり、対応策を練ったりはしていた。

 友人と酒飲んだりした時に話をすると、経営やってる連中からは、ユニオン行ったり、労基署行ったりするから、先に労基署に相談に行くのも手だぞという話も聞いていた。

 年明けに一応専門家の意見聞いておこうと、弁護士にも相談していて、まあ最後に外堀きちんと埋めておこうということで、今回一人下の者連れていってきた。

 まあ資料とか諸々用意していたこともあり、淡々と説明して意見を求める。すでに弁護士から法的な部分含めてアドバイスもらっているので安心はしているのだが、案の定労基署の見解としても、こちらに非は一切ないということでメデタシ、メデタシということになった。

 問題は、この話を誰がその該当者に伝えるのかということ。まあヘタレが多いから、やっぱり貧乏くじ引くのかもしれない。ヤレヤレ。

 本当に早く仕事やめたいとつくづく思うこの頃である。

天気がいいのでMOMATへ行く

 例によってカミさんがどこかへ連れていけと言う。前夜けっこうな夜更かしをしていたので動き出しが遅く、家を出たのが2時過ぎということでどこへ行くか、近場だとまた富士美あたりか。でも富士美は今年になってすでに2回行ってるし。

 考えてみれば自分にとってベースとなるべき上野西洋美術館も竹橋近代美術館のまだ年が明けてから行っていない。車走らせてもなんだかんだで1時間、3時過ぎから観るならどっちかと瞬時考えて、車を止めることも含めて、竹橋のほうが良さげという結論。ということで天気もいいのでMOMAへ行くことにした。

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www.momat.go.jp

 ホームページトップには川合玉堂の「行く春」が出ているが、これは3月後半からの展示。まあ例年花見の季節ということになる。北の丸公園の桜を愛でながら近代美術館で「行く春」に親しむ。まあそういうことなんだろう。

 ということで4階の1室の目玉はこれでした。

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加山又造千羽鶴

 もう見事としかいいようのない六曲一双の大作だ。現代の琳派と呼ばれる加山又造だが、自分には意匠の人という感じがする。新しい題材、モチーフ、表現に挑み続けた人という感じだ。

 若冲曾我蕭白を奇想と言ったのは辻惟雄らしいが、門外漢の自分には加山又造川端龍子にも同じような進取な意匠を感じる。彼らも近代日本絵画における奇想と言ってもいいのではないか。こんなことをい言うと怒られるかもしれないけど。

 その他では以前にも観ていると思うが、けっこう気に入ったのが浅原清隆の作品。シュールリアリズムを志向した作品はマグリットやダリを思わせる部分もあるが、どことなく抒情性が漂っている。

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多感な地上(浅原清隆)

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郷愁(浅原清隆)

 

 浅原は帝国美術学校を出た招集されビルマで行方不明になったという。戦争によって絶たれた才能。生きていれば戦後の現代絵画を牽引したかもしれない。美しいイメージとともに孤独、寂寥感が漂っている。

アマゾン書籍買い切り

 Twitterのタイムラインをつらつら眺めていたら、「アマゾン書籍買い切り 値下げも検討」の文字が目に入った。早速、リンク先で記事を確認した。

headlines.yahoo.co.jp

www.nikkei.com

 毎日の記事によると買い切り品の値下げについては、「一定期間は出版社が設定した価格で販売するが、売れ残った場合は出版社と協議して値下げ販売などを検討する」ということで、これはいわゆる次元再販に近い。

 いよいよ黒船アマゾンが、再販制度に切り込んできたということだろうか。これに応じる出版社も様々だとは思うが、出版業界の厳しい売り上げ状況の中では、そして返品率が40%以上という現実の中で、業界の売り上げシェアを独走するアマゾンの提案には、断りきれない出版社、藁をもつかむようにとびつく出版社が多数あるのではないかと思う。

 しかしもともと売れない本が、値引きをすれば売れるのかという疑問がついて回る、ではなぜアマゾンがこのタイミングでこうした仕掛けをしてきたのか。それはここ数年、出版物流の中抜き、取次を介さず直で出版社との取引を志向してきたアマゾンの次の一手ということじゃないかというのが、多分一般的な見方のように思える。

 アマゾンは取次を介した出版物流では注文品の調達日数の短縮が抜本的に難しいこと、出版社と直仕入れを行うことで利益率を大幅に改善させることなどを理由にここ数年、出版社に対して直仕入れを提案し続けてきている。

 しかしこれがあまり進んでいないということもよくいわれている。アマゾンとの直を進めている出版社は取次売り上げ上位の出版社の中では10数%程度にとどまるのではないかと思われる。主要出版社では片手くらいではないかと推測している。

 出版社側にも事情はある。アマゾンに生殺与奪のすべてを握られることへの危惧。大手書店との関係性の重視など。少し前にアマゾンとの直取引が大きく喧伝されたときに、ナショナルチェーンの書店トップが大手出版社幹部を集めて牽制したなんて話もあったように記憶している。

 そうした中でアマゾンの出版社との直取引推進のための次の一手がこの買い切りの提案なのだと思う。本が売れない厳しい状況の中で、返品率は40%以上とまでいわれ、これが出版社の経営を締めつけていることは紛れもない事実である。そこに圧倒的な販売力をもつアマゾンからの魅力的な提案だ。

 しかし日経の記事にあるような発言が大手出版社から出たのが本当だとすれば、これはこれで問題だ。

返品が可能なため書店はこれまで本を販売する努力を怠ってきた。書店が責任を持って販売することで市場活性化につながる。 

 まったくにおいてどの口が言っているのか、頰をつねってやりたくなる書店が多数ではないかと思う。確か八重洲ブックセンターの社長Twitter が怒りの声をあげていたっけ。

八重洲山【八重洲ブックセンターの社長】 on Twitter: "★なにい〜!!(怒)
『大手取次会社の幹部は「売れる商品をアマゾンが大量に仕入れた場合に、地方の中小チェーンに書籍が届かなくなる可能性がある」』
アマゾン「書籍買い切り」: 日本経済新聞 https://t.co/bD0JiFuYmG"

 本屋からすれば売れない本ばかり作りやがってという声が漏れ出しているのではないだろうか。しかも今の正味体系と価格帯でいえば、10冊仕入れても2〜3冊売れ残ればそれで書店の儲けは吹き飛ぶことになる。これで責任販売は実はありえない。

 ついでにいえば、記事の中では触れていないが、アマゾンが提案する「書籍買い切り」には多分裏があるのではないだろうか。もともとアマゾンが出版社に求めている直仕入れでの取引条件は、6掛けといわれている。

biz-journal.jp

 これは取次に卸す出版社の正味よりも多分相当に安い。多分、買い切りをチラつかせて直取引を増やす。おのずとアマゾンの売り上げシェアが出版社の中で高まる。そうなったところで取引条件の変更を・・・・・。

 青息吐息の出版業界にあってアマゾンはある意味外圧黒船である。それが長きに渡る出版物の再販制を崩すことになるだろうか。確実にいえることは本の定価が上がるということじゃないかと思う。10%以上の正味ダウンをどこで吸収するかといえば、定価を上げる以外にない。ただでさえ物流経費が上がる一方である。制作原価を切り詰めることも、人件費のカットも限界がある。

 定価をあげれば正味を下げても対応は可能かもしれない。そして正味を下げればアマゾンは、リアル書店にはできないディスカウントを行ってくるだろう。

 そうなれば、大手ナショナルチェーンも同様に出版社との直取引に走る。一定程度の販売力があるから大量に仕入れ同様にディスカウントすることになるだろう。ほぼほぼアメリカと同様の出版販売になっていくのかもしれない。

 しかしそれでもあえて言えば、正味を下げようが、定価を上げようが、買い切りにしようが、本は売れるのかという疑問だ。多分、よりニッチな嗜好品として定価が高くても必要とする人は買うだろうという商品になっていくということ。

 もう出版物は大量販売されるものではきっとなくなっていくのではないかというペシミスティックな感想がある。

 アマゾンの「書籍買い切り」、多分まもなくリタイアする身としては、一読者としてなんとなく傍観することになるんだろうなと思ったりする。

弁護士と会う

 昨年暮れから社内でトラブル案件が発生している。そこで諸々記録をとり資料をまとめたりとかしているのだが、訴える方がどんどんエスカレートしているため、会社としての方向性を出す必要もでてきている。

 もともと社労士とかに相談している限りでは、会社側に問題となる部分はほとんどなく、ほぼほぼ一社員の主観による訴えなのだが、専門家の意見をきちんと聞いたほうがいいということで、弁護士に相談することにした。

 1時間ほどの面談で、相手は都内に事務所をかまえる大先生である。こちらが持参した資料を素読した後、これは特に問題となるような案件ではない、会社は粛々、淡々と対応に当たるべしというもの。

 あとは少し雑談風に関連事案などを話していただき、参考になりそうな部分をこちらがメモするみたいな感じで終了した。なんとなく言外にはあんまり心配しなさんなみたいな風にもとれたし、それ以前にこんな事案で相談に来るなよみたいな風にも感じられた。

 とはいえこちらは専門外でもあり、やっぱり神経質にならざるを得ない。とりあえず専門家のお墨付きをもらって帰った。

ミシェル・ルグランが死んだ

 朝、twitterのタイムラインを眺めていたら、フォローしている方のツィート「ミシェル・ルグランさん、ご永眠」にびっくりして、調べていくとすぐに訃報にいきあたった。

www.asahi.com

 86歳という年齢からすれば大往生かもしれない。いつか来る訃報なのかもしれない。でも悲しい、ただただ悲しい。自分にとっては20世紀を代表する音楽家、作曲家、編曲家、ピアノ奏者、マルチ・コンポーザーというべき人である。彼に比肩する作曲家で思い浮かべるとしたら、バート・バカラックポール・マッカートニーあたりだろうか。

 ミシェル・ルグランといえば映画音楽、60年代のフランス映画、ジャック・ドゥミとのコンビによる「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」、さらにハリウッドに進出してからも「華麗なる賭け」「思い出の夏」などの名曲。

 さらには50年代からアメリカのジャズ・ミュージシャンとの交流から生まれた洒落っ気があり、情感と抒情生に溢れた都会的なジャズの名曲。ソフィスティケートされたその演奏はビル・エバンスを想起させるが、自分などはエバンスがルグラに影響されたのではないかと思ったりもしていた。一言でいえばエスプリ・ジャズ。

 映画音楽の部分ではその美しいメロディラインからフランシス・レイとともに語られることも多かったが、トータルな才能はルグランが凌駕していたと思う。フランシス・レイは美しいメロディを口ずさむアコーディオン弾き、ルグランは総合芸術家みたいな感じだろうか。けっしてレイを悪くいうつもりなどはない。そういえば確かフランシス・レイも昨年鬼籍に入った。20世紀を彩った、美しい調べを作り出した人々がみんな亡くなっていく。

 ルグランのジャズで1枚選ぶとすればなんだろう。やっぱり初期のこのアルバムじゃないかと思う。1958年、26歳のルグランが新婚旅行でアメリカに行った際に、アメリカのトップ・プレイヤーと繰り広げたビッグ・バンド・ジャズ。マイルス・ディヴィス、コルトレーンハンク・ジョーンズアート・ファーマーポール・チェンバースそしてビル・エヴァンス綺羅星のごとくである。

 ディジー・ガレスピーのアレンジをしたフランスの才気溢れるミュージシャンを当時の売れっ子ジャズメンが歓迎している様子が手にとるように伝わってくる。 

ルグラン・ジャズ+3

ルグラン・ジャズ+3

 

  当然、持っていると思ってCD棚を探したのだが見つからない。どこかに紛れてしまったのだろうか。試しにルグランで手持ちはと出してみるとこの4枚が見つかった。今日はずっとこれを聴いているか。

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 あとはYouTubeで懐かしい映画のシーンと音楽に浸ることにする。


Les Demoiselles de Rochefort -- Scène d'ouverture


2 l'arrivée des camionneurs


Les Demoiselles de Rochefort

 そして最後にこの甘く切ない調べ。自分はこの映画をもう久しく観ていない。というのはこの映画のセンチメンタリズムを許容できなくなっているのではないかとそんな気がしているから。この映画に感動した時の自分の若さ、甘さ、稚拙さ、そういう部分がもうとっくに消え失せてしまっているような、そんな気がするからだ。


Summer of '42( おもいでの夏 )- Michel Legrand

クラムスコイ「忘れえぬ女」を観る

 会議が割と早めに終わったので比較的近い竹橋のMOMATに行ってみると、金曜日だというのに模様替えのためお休みという。なんとなく途方に暮れみたいな心象風景で、上野でルーベンスはまだやっているかと考えた。すると啓示のようにそういえば渋谷文化村でクラムスコイの「忘れえぬ女」がきていることを思い出した。それも確かまもなく終了だったような。

 早速調べてみると27日までで、金曜日は9時までやっている。神保町からは半蔵門線で一本で行ける。ということで速攻向かってみる。

https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/18_russia/

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クラムスコイ「忘れえぬ女」

 クラムスコイの「忘れえぬ女」は大塚国際美術館の陶板複製画を観てから、ずっといつかオリジナルを観てみたいと思っていた。個人的には「究極の上から目線」と呼んでいた絵である。

 大塚国際で展示されている絵画はだいたいが有名画家の代表作、日本でも人気のある作品が多く、この絵も「北のモナリザ」「ロシアのモナリザ」と呼ばれていて日本でもたいへん人気がある。

 1976年に初めて来て以来40年の間に8回も来日しているという。ある意味ロシアの絵画の中では目玉的な作品ということになるようだ。

 実際行ってみるとこの企画展、終了間際の金曜日ということもありたいへんな賑わい。この絵の前には人がごった返すような状態だった。それでも時間をかけて人がすくタイミングでゆっくりと対面した。なんというかやっと会えたねと、この冷たい視線を放つ女性に話しかけるような感じだ。

 絵は筆触が確認できないような感じで、全体として新古典派あるいはロマン派のような感じで、どことなくシャセリオーを想起させるようなものがあった。時代的には19世紀中葉であり、ほぼほぼ同時代的である。同じヨーロッパにあって先進国フランスと後進国ロシアではあるが、雰囲気、技法、表現といった部分では繋がっているということを再確認した。

 その他の画家ではレーピン、シーシキン、アイヴァゾフスキーといった面々の作品はやはり素晴らしいと思った。クラムスコイを含めこのへんをロシア四人組とかってに呼んでしまおう。