2014年、あなたは何処にいて何をしていましたか?

 

 

 Xでフォローしている方が「2014年が10年前だというのが信じられない」みたいなことツィートしていた。

 2014年が10年前、確かに信じがたい。2011年の原発震災はもう13年も前のことだ。

 デビューした頃の村上春樹だったら、「やれやれ」とでも言うだろうか。

 そして思いついたのはこの言葉。

「1962年の夏、あなたはどこにいましたか」

 そう、ジョージ・ルーカス出世作アメリカン・グラフティ』のキャッチコピーだ。あの映画は1973年公開だった。ルーカスは1944年生まれだから、当時29歳。どうでもいいが彼は5月14日生まれだ。あの映画はルーカスの伝記的な部分もある。映画の舞台となったカリフォルニア州モデストはルーカスの生まれ故郷だ。そして大人になった若者、28~29歳の若者が10年前、高校を卒業する年を回顧するお話だったのだ。

 

 そう、『アメリカン・グラフティ』は「10年ひと昔」という映画だった。

 

 あの映画がある意味、衝撃的だった。音楽は我々の世代からすると一世代上のオールディーズ、アメリカはまだベトナム戦争の泥沼に入り込む以前の繁栄した時代。リーゼントをポマードで固めたジェームス・ディーンみたいな男の子たちとコニー・フランシスみたいな女の子たち、アメリカの高校生たちが卒業生の一夜、町に繰り出し、卒業ダンスパーティーを楽しむ。狂言回しはラジオから流れるフルフマン・ジャックのDJとオールディーズ・ナンバー。

 『アメリカン・グラフティ』は確か試写会で観た。多分、懸賞かなにかで当たったんだろうか。日本公開は1974年12月だったからその少し前くらいだろうか。自分は高校三年生くらいだっただろうか。すでに深夜放送とかで凄い映画ができたと話題になっていたし、映画雑誌でも大々的にとりあげられていた。でも、ジョージ・ルーカスって誰みたいな感じだったか。実際、まだスピルバーグも『ジョーズ』を撮る前で、テレビ映画だった『激突』が話題になっていたくらい。ミリアスもチミノも無名だった。たしかルーカスは、コッポラが推しているとかそんな触れ込みだったか。

 そして試写会で観て、もう興奮したものだ。暗いアメリカン・ニューシネマとはまったく違う新しいタイプの映画だなと思った。ストーリーはたった一晩、そして高校生たちの青春群像劇。出演している俳優もほとんど無名だった。のちにアカデミー賞俳優となった主演のリチャード・ドレイファス、映画監督で名をはせるロン・ハワード、そしてそしてただのチンピラでしかなかったハリソン・フォードなどなど。

アメリカン・グラフィティ - Wikipedia

ジョージ・ルーカス - Wikipedia

 

 そして改めて思った。10年ひと昔ということ。そして2014年、自分は何をしていたのだろうかと。

 こういうときこのハテナのブログはけっこう役に立つ。簡単に10年前に自分が何をしていたか(たいていバカなこと)、何を考えていたか(きっとバカなこと)、がわかる。当時は、はてなダイアリーといっていたが、まさにウェブ上の公開日記みたいなものだ。まあ継続は力というところか。

 2014年は記述が少ない。当時はだいたい毎年120~130くらいのエントリーがあるのに2014年は77とわずかだ。おそらく前年に中小零細企業とはいえ、サラリーマン双六で上がってしまったので、それなりに忙しかったのだろう。けっこう気負っていた部分もあるし、経営などほとんど素人同然だったから、親会社とのやりとり、会社の運営、銀行とのやりとり、システム運営の改善などなど、まあそんな今となってはヤボ用の類に無手勝流であがいていたのだろう。

 

 家のことでいえば、屋根の葺き替え、外壁塗装、トイレの交換とかリニューアルに金使っていたりしている。

 

 そして2月にテデスキ・トラックス・バンドのライブで人見講堂に行き、4月にディランのライブでお台場へ。5月はジョン・メイヤーのライブを武道館で観た。

 そしてそして、同じ5月にポールの前年に続いてのライブを観るため国立競技場まで行った。でもポール急病のためあえなく公演は中止。一緒に行った友人と国立の近くでベンチに座って缶ビール飲んだり、北海道から来たという方と話をした。

ポール!ポール!ポール狂想曲 - トムジィの日常雑記

 

 あれからもう10年が経ってしまったんだ。

 

 はてなの記録を読んでいくと、六本木の国立新美術館オルセー美術館展もあった。最初に勤めた会社で一緒だった知人が6月に亡くなった。なんでもその方の墓じまいが割と最近あるという。

 

 子どもは受験生の頃かと思っていたのだが、冬に修学旅行でヨーロッパ行っているみたいなのでまだ二年生だったか。羽田まで迎えに行ったことが記録に残っていた。

 17歳の誕生日には奮発して、ディズニーランド・ホテルに宿泊した。ハロウィンの日で、とんでもない混み方をしていたっけ。

 

 2020年に亡くなった兄が暮れも押し迫った時期に、買い物に出かけて転倒。そのまま入院手術して片目を失明した。ちょうど電気屋iPhoneの機種変更をしているときに病院から電話がかかってきた。そして電話は不通になり、開通してから慌てて病院に電話をしてかけつけた。兄はそれからも年末になるとよく入院することが多く、その都度呼び出された。最終的にはコロナ禍の12月に亡くなった。

 そのときのiPhoneは4から6への機種変更だった。それから我がiPhoneは、6から8になり、去年、型落ちの13に代えた。最新は15である。10年というのはそういう歳月だ。

 

 2014年、あなたは何処にいて何をしていましたか?

 私は今住んでいる町で同じように暮らしていて仕事をしていた。

 テデスキ・トラックス・バンドとボブ・ディランジョン・メイヤーのライブに行き、ポール・マッカートニーのライブは彼の急病のため中止となり観ることができなかった。もっともポールは翌年も来日したので、そのときにリベンジというか観に行くことが出来た。

 展覧会はオルセー美術館展、ヴァロットン展、ラファエロ前派展、バルュテス展、ミレー展に行った。

 

 10年後の今は、もう仕事を辞めて4年になる侘しい年金生活者で、老いぼれた通信教育の大学生をしている。

 身障者の妻は相変わらずといえば相変わらず。去年からインシュリンの注射をうつことになり、それが毎朝の私の日課になった。

 子どもは3年前に独り立ちした。

 

 多分、多分だけど、2034年に10年前を思い起こすことはないのではないかと思っている。ヴォネガットではないが、そういうものだ。