「ベイビーわるきゅーれ」を観た

ベイビーわるきゅーれ - Wikipedia

 なんの予備知識もなく観た。低予算のB級アクション映画だが思いのほか面白かった。女子高校生二人組の殺し屋が高校卒業後、組織から表向きは社会人として生活することを要請される。殺しについてはプロだが、生活力ゼロに等しい二人は、バイトは首になる、そもそも面接で落ちるを繰り返す。

 キレの良いアクションシーンやハイテンポな展開と、二人のグダグダな日常生活、そういう緩急がうまく処理されていて一気に観ることができる。設定の面白さ、不自然さをアクションと俳優の演技でうまく処理している。なんかこう日本映画の底力というか、質の高まりみたいなものを感じた。低予算、無名の俳優でも、設定や脚本のうまさ、役者の演技できちんと娯楽映画にした立てる。そういう部分でのレベルアップを感じる。

 もっとも女子高生の殺し屋というあり得ない設定、そういうものに違和感を感じたり、ハイテンションに銃アクションシーンや格闘シーンが続く、そういうバイオレンスに忌避感をもつ人にはちょっと難しいかもしれない。

 多分、こんなの現実的じゃないと思った瞬間にこの映画に入り込む余地はなくなる。リアリティ性は皆無かというと、アクションの非日常性とは真逆な社会不適合ニートな女子たちのグダグダな日常のリアリティ、そういう部分を笑えるかどうか。まあそういいうことだろう。

 

 まずワルキューレってなんだったっけ。オールドな自分が思い浮かべるのはというと、やっぱりワーグナーの「ワルキューレ」だ。

ワルキューレ (楽劇) - Wikipedia

 そして例の音楽といえばやっぱり「地獄の黙示録」のあのシーンだったりする。

 

 この狂気のビル・キルゴア中佐を演じたロバート・デュバルの怪演技はこの楽曲とともに映画的記憶として残り続けている。どうでもいいがランボーに出てくるトラウト大佐とこのキルゴア中佐がなんとなくゴタ混ぜになるのは、やはりヴォネガットキルゴア・トラウトのせいかもしれない。

 「ベイビーわるきゅーれ」の中でもワグナーの「ワルキューレの騎行」は、様々なバージョンのアレンジで用いられている。やっぱり監督はけっこう意識しているみたいだ。

 

 そもそもの「ワルキューレ」はというと北欧神話に由来している。

ワルキューレ(ドイツ語: Walküre)またはヴァルキュリャ(古ノルド語: valkyrja、「戦死者を選ぶもの」の意)は、北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のことである。

ワルキューレ - Wikipedia

 そこから転じてというかワルキューレといえば「武装した乙女」、「女性戦士」を称するということになったということのようだ。

ワルキューレとは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 「武装した乙女」、ハイティーンの戦士、女子高生の殺し屋、ベイビー・ワルキューレとまあそういうことのようだ。なるほどね。

 

 もっともこの映画は、そういうタイトルやら設定の由来とか、そういう小難しいことや小理屈は一切無用だし、どちらかといえば、そういうのを排除し忌避するところから始まっている。

「いるよね、いちいち説明つけるやつ」

「あ~、そういうのダメだわ」

 グダグダな日常を送る若き殺人乙女が言いそうだ。

 

 この映画はまず監督・脚本の阪元裕吾のアイデア、センス、ハイテンポな演出に依拠している。そして監督が生み出した二人のキャラクター、ちさととまひろという殺し屋女子の設定がすべてかもしれない。

 ハイテンションで社交的だが雑ですぐにキレる性格のちさとを演じるのは高石あかり。彼女はまだ21歳でこの映画の製作時は17歳だったとか。それを考えるとそのタレント性は高いし、おそらくカメレオン的にどんな役も出来そうな感じがする。

 一方、まひろ役の井澤彩織は高石とは9歳上の29歳。キレの良いアクションシーンを演じるのは、もともとスタントパフォーマーだから。そうかスタントマンは今はスタントパフォーマーと呼ぶのかとちょっと納得したりもする。まひろ役はコミュ障でニート度の高さと、格闘シーンのキレとのギャップが面白く、キャラクターとしてはこの映画の中でも異彩を放っている。ただしこのまひろというキャラの印象が強く、今後の井澤のキャリアは、この役に規定されてしまうかもしれないという部分もある。

 

 この映画、一部では絶賛され、単館では池袋シネマ・ロサで9ヶ月以上のロングラン上映されたという。メジャー映画とは別のジャンルになるのだろうが、相当のヒットとなったようで、すでに続編「ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」も公開され、今秋にはパート3も上映予定だという。ヒット作のシリーズ化ということだろうか。

 アクションシーンのリアルさと、グダグダ女子の日常生活、そして主役二人の名演技など、それこそテレビドラマ化してもイケそうな気もする。十代の殺し屋というセンシティブな部分から、ゴールデンの時間帯は難しいだろうとは思うけれど。

 

 もう一つこの映画の面白さは、女性同士の友情という部分、いわゆるシスターフッドなところだ。さらにいうとこの映画、殺伐とした殺人シーンは多数出てくる。もうバタバタと人が撃たれる、死ぬ。ただ一方で、若い女性をメインにしているが、恋愛だのセックスだのは無縁でもある。

 「人は放っておいても死ぬし、セックスをする(寝る)」。

 そういう部分でいえば、この映画にはセックスはない。ありがちなリアリティをそもそも放棄している部分が、この映画がウェットに陥らない理由かもしれない。シスターフッドはハードボイルドでもある。そういうことかもしれない。

 深夜、ハードな殺戮というハードワークの後、二人はジャレあうようにして帰宅する。「酔っ払いみたい」と自虐しながら。

 そして部屋に帰ったら、冷蔵庫に入っているケーキを頬張るのだ。