たましん美術館「邨田丹陵-時代を描いたやまと絵師」 (1月31日)

 

 立川で友人に連れて行ってもらった。

 たましん歴史・美術館、初めて聞く美術館。多摩信用金庫を母体とするたましん地域文化財団が運営する美術館。

たましん地域文化財団 - Wikipedia (閲覧:2024年2月3日)

【予告】企画展「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」1月13日(土)開幕

(閲覧:2024年2月3日)

 

 

 邨田丹陵、初めて知る画家だ。

邨田丹陵 - Wikipedia (閲覧:2024年2月3日)

邨田丹陵 :: 東文研アーカイブデータベース (閲覧:2024年2月3日)

 武者絵を得意とするやまと絵師川辺御楯に弟子入りし10代で頭角を現す。川端玉章が川辺御盾に働きかけ、後進の育成のために結成された日本青年絵画協会に丹陵は19歳で参加した。日本青年絵画協会は会頭に横山大観が就任し、寺崎広業、小堀靹音らも参加。

 明治5年(1872年)生まれの邨田丹陵は、明治元年(1868年)生まれの横山大観より4歳下でほぼ同時代人である。また寺崎広業は義兄にあたる。

 日露戦争には寺崎広業とともに従軍し、多くの戦争報道画を描いた。また多くの展覧会で受賞を重ねたが、明治40年(1907年)の第一回文展で3等賞を受賞後は中央画壇から遠のいた。晩年は東京府北多摩郡砂川村に居住。立川市にとっては郷土の画家ということになる。

 画力に優れ、有職故実に即した細密な歴史画、武者絵が多い。絵の雰囲気は武者絵はなんとなく小堀靹音と同じような感じがする。女性を描いた絵には、同じようにやまと絵に傾倒した伊藤小坡と同じような雰囲気もある。

 近代、明治以降のやまと絵は教科書や近代美術史の書籍などでも触れられることが少ない。せいぜい小森靹音や梶田半古の門下である安田靫彦前田青邨、松岡映丘らの歴史画にその影響の跡をみるなど。

 邨田丹陵やその師の川辺盾山など、いわゆるやまと絵師は、本当に美術史の本でも記述がない。手元にあった草薙奈津子の『日本画の歴史 近代篇』にもまったく記載がない。邨田丹陵が忘れられた画家というよりも、近代日本画史においてやまと絵自体が忘れられた存在になっているようだ。とはいえ明治から昭和初期にかけて、やまと絵は大観らの日本美術院系の画家たちの総称である新派に対するいわゆる旧派の一ジャンルとして、それなりの勢力を持っていたのではないかと思ったりもする。

 近代におけるやまと絵、そういう企画展があれば観てみたいような気もする。細密な描写にすぐれた画力ある画家が、それも忘れ去られた画家が沢山いるのではないかと思ったりもする。

 今回の邨田丹陵の絵、みな見事な美しい絵ばかりである。ただし、その細密描写の絵はどこかただ上手いだけの絵みたいな感じがしないでもない。なんていうのだろう、我々が近代の歴史画、特に安田靫彦前田青邨らの絵から感じるような緊張感あふれる画面やある種の精神性みたいなものはやや希薄なようにも思わないでもない。まあちょっとした思いつきの類ではあるが、そのへんが芸術家と職人的な絵師の差でもあるのかもしれない。

 

小早川隆景公仮寝図》 明治35(1902)年 紙本着色 109.5×41.3 三原市所蔵

 

聖徳記念絵画館壁画下図「大政奉還」》 昭和9年(1934年)  76.0×65.3 明治神宮蔵