ガチャについて

 最近よく聞くのが「〇〇ガチャ」というやつ。

 ガチャはカプセルトイでコインを入れてハンドル回すとカプセルが出てくる。その中に入った玩具、フィギュア、グッズなどなどに当たり外れがあって、欲しいレアものをゲットするために際限なくコインを投入し続けるみたいなものだ。

 そして「〇〇ガチャ」という言葉。よく使われるのが「親ガチャ」というやつだ。子どもは親を選べない、親の収入によって人生が決まるみたいな意味合いで使われるのだろう。

 それは確率の問題ではなく蓋然性の問題。ガチャも例えば10回やれば確率的に1~2個はレアものに当たるかといえば、そんなことはない。延々外れだけを引き続ける。でも1回で当たりを引く場合もある。まさに蓋然性、当たるかもしれないし、外れるかもしれない。たまたま、偶然、運不運によって、金持ちの家に生まれる場合もあれば、貧乏な家に生まれるかもしれない。金持ちの家に生まれても、親が事業に失敗するとかでいきなり貧困家庭に変わるかもしれない。

 それにしても親ガチャというのはけっこうひどい物言いだとは思う。でも今の社会のように格差が大きくなり、ある種の身分社会的に固定化された閉塞的な状況では、まさに親ガチャはあるのかもしれない。親が資産家であれば、上場企業の経営者であれば、地方の素封家であれば、子どもの人生はある意味順風満帆だ。政治家だってやたら二世、三世議員が出てくるのは、個人で地盤、看板、カバンを一から構築するのと、親の金、名前、後援会を引き継ぐのでは大きな差が出る。そういうことだ。

 それでも一応親業やってきた身としては、その言葉を素直に受け取る訳にはいかないし、ずいぶんと酷い話だとは思う。親は親なりに頑張ってきたつもりでも、子どもからすれば親のそれなりの努力とか、家族にいい生活をさせたいという頑張りとかを捨象して、単純に経済力だけの部分で判断される。挙句の果てに子どもは親を選べない。親ガチャ・・・・・・、残念という。 

 翻って自分の人生はどうだったかといえば、自分の両親は自分が物心つく前に離婚していて、自分は母親の顔も知らなければ、どんな人だったかも知らない。二親がいないという時点である意味親ガチャ外れだったかもしれない。

 おまけに父親が事業に失敗したので、子どもの頃からとんでもない貧乏を経験している。さらに父親の母親、自分の祖母、おばあちゃんという人がこれもかなり私生活的にインパクトある人でさらにとんでもない浪費家で、ということもあったし。兄は中卒の職工さんだったりと、まあ家庭ガチャ的にも微妙だったりもする。

 自分自身はどうか、受験は高校も大学も失敗したし、貧乏だったので学費は自分で稼ぎながら地方のあまり偏差値の高くない大学行ったから、学歴的にもあまりうまくない。まあこれは自分の努力の問題もあるから学歴ガチャとはいえない。仕事も6度変わっているから、仕事ガチャも微妙だな。

 腹立たしく親ガチャという言葉を受けて、そらならと親というか大人的にも実は言いたいこともある。そもそもこの親ガチャ的なもの、実は様々な場面で使うことができるし、換用可能な気もする。

 親ガチャ同様にあんまりいい物言いではないと思うけど、親ガチャがあるとすれば当然子ガチャもあるかもしれない。親的にはちゃんと育てたつもりでも、ヤンチャしたり、そこでとどまればいいけど非行に走ったり、例えば女の子で20前後で出来婚とかも多分親的には頭抱えるかもしれない。
 さらに、けっこう深刻な問題になってしまうけれど、イジメを受けたり、逆にイジメの加害側だったりとか、不登校とか引きこもりとかもある。

 子どもの多くの問題は、多分育て方など親の問題に起因する場合が多いだろうとは思う。それでも親的にいきなり難しい場面にぶち当たることもあるのだろう。それを思うと、自分の子どもはとりあえず金はかかったが私立高、私立の四大出て普通に正社員として勤めているから、まあいいかと思ったりもする。

 しかし親ガチャもツライ言葉だが、子ガチャというのも相当にシンドイ。

 さらにだ。人生においてはさらに様々なガチャが用意されている。

 子育てがうまくいったとしてもそこで終わらない。知り合いで、子ども二人が首都圏の国立大出て、上場企業に就職。それぞれ上級公務員、同じ会社の同僚を配偶者に得て、二人とも早々に都内にマンション買ってと絵に描いたようなある意味勝ち組、順風満帆かと思ったら、どっちの子だったか忘れたが、子どもが不登校とかで大変なことになってる。それは知り合いからすればひょっとすると孫ガチャかもしれない。けっこう可愛がっているし、それはそれでいいんだけどやっぱり将来のことを考えるといろいろ大変だ。

 

 親とか子とかそういうドメスティックなことは置いといて一般社会の話をする。
 普通に社会生活送っていても人間関係でだっていろいろある。「〇〇ガチャ」という言葉を物差しにしていけば、結婚すれば夫ガチャだの嫁ガチャだのがあるかもしれない。いい人だと思ったら、自己中だったり、暴力的だったりとか。高学歴、高収入だと思っていたのにあっさりリストラされちゃうとか。
 母親がしてくれるようになんでもやってくれる嫁さんかと思っていたら全然違っていたとか。まあこれはそういうことを嫁さんに求めるのが間違いだろうけど。
 
 自分自身のことになると、共稼ぎでいい人生、いい生活を歩もうと思っていたらいきなり配偶者が病気になってしまうとかもある。
 
 社会生活全般でいえば、人間関係が大きなウェート占めるから、仕事していても上司ガチャ、同僚ガチャ、偉くなれば部下ガチャとかだってあるかもしれない。

 

 結局のところ、こういうのはやめた方がいいのだとは思う。親だの家庭だの、ハンデがあっても、人生はある部分自分のやり方次第で変えることができるだろう。キレイごとと簡単に片づけられてしまうかもしれない。でもキレイごとを続けさせてもらえば、「親ガチャ」とかそういうのは、所与の現実をそのまま受け入れているということに過ぎないのではないのか。

 現実には与えられたものと、日々造られていくものがある。でも多くの場合、現実は既成事実ということで固定されたものと認識されている。貧乏な家に生まれたという現実が現前とあるとそれを受け入れて、そういう現実のもとに生まれ育ったのだから仕方がないということになる。一方で現実は将来的に変えることが可能でもあるのだということ。 
 貧乏な家庭、親の経済力が裕福な家庭より劣っているとしても、少しずつその現実は造り変えていくこともできるはずなのだが、どこか諦念というものに包まれてしまう。

 さらにいうと現実への対応能力の中には、経験値によって養われ、困難な部分はあってもその現実を受けいれつつ少しでも変えていくことができるかもしれないとも思ったりもする。うまくいっていたのがいきなりどん底に陥るみたいなことだってあるかもしれない。でもそのままどん底のままでいるのではなく、月並みだがそこから脱出する方途について努力するなんてこともあるかもしれない。

 かれこれ18年前になるが、妻が病気で倒れ障害者になった時はかなり絶望的だった。病院の前庭でタバコ吸いながら大の男がポロポロと涙流し、声を上げて泣いていた。本当にどうしていいかわからなかった。共稼ぎで、当時は妻のほうが収入も多かったし、家を買い替えて1年足らずで、二人あわせて毎月16~7万のローンを抱えていた。子どもは小学生二年生だったか。軽薄にいえば嫁ガチャかもしれないし、人生ガチャは外れをひいたのかもしれない。子どもにとってもいきなりガチャ外れである。
 
 まあいろいろあった。妻の障害という現実は変わらないけれど、家の買い替えでローンもなくなった。仕事もけっこう遠回りはしたけど、キャリアの最後でそこそこの収入は得られた。先へ先へと考えながら、即実行に移すことでなんとか凌いできた。

 

 自分の人生についていえば、ガチャで嘆くようなことは多分ない。なので簡単に親ガチャ、子ガチャ、学歴ガチャとかそういう言葉で片づけてほしくないとは思っている。一方で今の閉塞した社会で、いったん貧困に陥るとなかなかそこから抜け出せないという現実もあることは知っている。10年くらい前だったか、一度正社員ではなくなると、それからはずっと非正規雇用に甘んじないといけない、そういうシビアな社会になっているというのをよく見てきた。

 個人の努力でそう簡単に現実を変えることができないハードな世の中。だからこそその固定化された現実社会を揶揄するように「〇〇ガチャ」という言葉が流通しているのだろう。難しい問題だ。