TAR/ター

 

 これは暮れに観た。

 ケイト・ブランシェットが女性指揮者の演じ、アカデミー主演女優賞にノミネートされた作品。受賞したのは『エブエブ』のミシェル・ヨー

 映画としての評価は高く、特にケイト・ブランシェットの演技は最高評価といわれている。また様々な伏線あり、オカルトチックな部分あり、などで二度、三度と観ないと判らないという批評もけっこうあったりする。まあ非常に評価が高く、特に映画好きな方にはたまらん的な映画だという。

 重厚な演出、ケイト・ブランシェットの演技も素晴らしいし、2時間38分と長尺でもさほどダレることなく観ることができる。傑作か? そのへんがちょっと。

TAR/ター - Wikipedia

 自分は皮相な人間なので皮相な映画の見方しか多分できない。なのでこの映画も皮相な見方をするけど、けっこうこの映画酷い内容を秘めているかもしれない。

 主人公リディア・ターはレナード・バーンスタインを師と仰ぎ、アメリカの四大オーケストラの指揮を務め、エミー賞グラミー賞アカデミー賞トニー賞という4つの賞を受賞したいわゆるEGOTクラブの一人。現在は世界最高峰のベルリン・フィルの首席指揮者を務め、一方でニューヨークのジュリアードでも学生を指導する。まさにクラシック音楽の世界の最高峰に君臨している女性指揮者である。

 プライベートではレズビアンを公言し、ベルリン・フィルコンミスを妻にもち、アジア系の養女の父でもある。さらに女性アシスタントをあごで使い、学生にはパワハラ的であり、若い楽団のチェロ奏者には色目を使う。

 かって性的関係を強要したために去っていったアシスタントの女性に対して、彼女が業界で働けないように影響力を行使し、その結果彼女は自殺してしまう。そのことが発覚し、さらにターが行ってきた様々なパワハラ、セクハラが告発され、彼女は転落していく。

 そして最後に彼女は音楽を愛する境地を取り戻すことができたのか。

 

 皮相な人間の自分には、これってただのセクハラ、パワハラオヤジの話じゃないとしか思えなかったりする。しかもそのオヤジを女性に演じさせるという倒錯性、アイロニーケイト・ブランシェットの演技はというとただのセクハラオヤジ、パワハラオヤジなのである。しかも彼女は自らの権威、権力に対して無自覚である。そして音楽に対してきわめてピュアでもある。

 普通、これだけの権威、権力を手に入れたら、もっと政治的に振舞う、画策する、防備するだろうと思うものだが、彼女はどこか天然であり続ける。なぜか、彼女にとって絶対なのは音楽そのものであり、その解釈者、演奏者としての天才性なのだ。

 しかしこの映画は何を描こうとしているのだろう。クラシック音楽界のヒエラルキーや権威、権力構造、セクハラやパワハラの実態か。ならばストレートに男性指揮者の物語にすればいいではないか。なぜにそれを女性指揮者によって逆転させるのか。

 そういう指摘もあるだろうとは思ったけれど、この映画はどこか反フェミニズム的である。しょせん女も一緒。権力構造を上り詰めれば、男と同様に権威、権力を振り回すようになると。まあ皮相的にはそういうことなんだろう。

 

 この映画の中でのターの口ぶりは男性そのものだ。字幕もあえて男性的な言い回しになっていたが、多分セリフ自体が男性的なのだろう。なぜそうなのか、ケイト・ブランシェットが女性性というよりも男性性を演じているような演技をしているのはなぜか。

 ようはクラシック業界全体が男性社会だからなのである。現代では女性指揮者も出てきている。でも圧倒的に少ない。オーケストラにおいても女性奏者はまだまだ少ない。つい最近までウィーン・フィルには女性奏者もいなかったという。

 そういう男性社会で女性が進出するには、女性がのし上がっているには、それは男性化していくということでしかないのである。女性が女性性のまま社会に進出できない、男性性を疑似的に演じなければヒエラルキーを上り詰めることができない。21世紀の社会もまだまだそういう男性社会が継続しているのだ。

 自分の身近でも女性で頑張ってきた人を何人か知っている。女性で経営者となった人たちだけど、みなプライベートをつぶし仕事にのめり込んできた人たちだ。割と仲の良い友人の一人はよく、「結局男と同じ仕事をしていてもダメ、男以上に仕事して成果をださないと認めてくれない」と話していた。そのとおりだと思う。

 女性が女性であることを捨て、仕事の面では男性として生きる。そして男性以上に働かないと、男性を凌駕するような才能を持っていないと評価されない。自分はそれになんて答えるか。「まあ男性社会は2000年以上続いているから、そう簡単には変わらないだろうね」と。

 

 ターはまさに男性化した才能あふれる女性なのである。その彼女がやっと手にした頂点から男性が告発されるのと同じパターンで転落していく。この映画のケイト・ブランシェットの男性的演技はどこかギミック的でもある。この人の過剰な演技、雰囲気は、いつもどこかギミックである。『キャロル』もある意味オッさん的だったし、『ハンナ』のCIAエージェントもそうだ。

 女性に男性を演じさせるある種の倒錯性。そしてそのまま男性として負の部分をギミックに示す。そういう風に見えてしまうところがこの映画のシンドイところだ。

 

 実際、この映画に関してフェミニストはどう反応しているのだろう。自身が女性指揮者であり、レズビアンでもあるマリン・オールソップはこの映画に対して否定的なコメントを発している。

「ターの多くの表面的な側面が、私自身の私生活と一致しているように思えました」とオルソップはタイムズ紙に語った。「しかし、一度見てからは、もう気にしなくなり、腹を立てました。私は女性として、指揮者として、レズビアンとしてとても腹を立てました。」

Marin Alsop, real conductor mentioned in 'Tár,' slams film - Los Angeles Times

(閲覧:2024年1月15日)

マリン・オールソップ - Wikipedia  (閲覧:2024年1月15日)

 

 もう一つこの映画の中で、多分ジュリアードでの公開講義かなにかで、ターがアフリカ系の若いゲイの学生を叱責するシーンがある。学生はバッハを女性差別主義者なので好きになれないと言ったため、ターは学生を徹底的に言葉で痛めつける。ターからすれば作品と作者のパーソナリティは別ということなのだ。この叱責シーンが盗撮されていて、後半でターの告発のために使われる。

 このシーンもまた現在のLGBTに対するギミックのような感じがする。実際の指揮科や作曲科のコースで、学生がバッハの性癖を理由にその音楽を評価しないと述べれば、教官はたぶんその学生をつまみ出すに違いない。同様にモーツァルトは性格がお下劣であるとか、チャイコフスキーの性癖をあげつらったりすれば・・・・・・。

 作品と作者のパーソナリティは別、たぶんずっとそうだったのだろうが、キャンセル・カルチャーの時代ではそれも危ういかもしれない。よく我々は、この表現は20世紀だったらOKだが、今の時代ではOUTという物言いをする。実際、多様性やLGBTフェミニズムの観点から、時代性だけに免罪符を与えることは難しくなっている。

 ひょっとしてあと10数年もしたら、反女性主義者という理由でバッハは禁じられるかもしれない。まあ、あり得ないとは思うが。

 問題はそういうことも含んでいるが、それとは違う。この映画がLGBTをこのようにチープなギミックにして描いているところなのである。それはターを過剰に男性的に描くことと同様である。ようするに多様性への逆張り的な悪意性があるのか、ないのかというところなのである。

 自分は皮相的な人間だ。なので皮相的にこの映画の悪意性を感じた。映画としてはよく出来ている。見応えもある。でも悪意が・・・・・・。

 

【考察】映画『TAR/ター』あらすじ・感想(ネタバレ)/トッド・フィールドが描くリディア・ターという天才芸術家の繊細なポートレイト - デイリー・シネマ

(閲覧:2024年1月15日)

<考察>『TAR/ター』をニューロティック・ホラーとして読み解く | CINEMAS+

(閲覧:2024年1月15日)

 

(閲覧:2024年1月15日)