グレーテスト・ショーマン

 これもレンタルDVDで観た。けっこう評判もいい興行的にも成功したミュージカルのようだ。この映画のスタッフは多くが「ラ・ラ・ランド」のスタッフだということも多く喧伝されている。もともとMGMミュージカル好きな自分にとっては前評判からしても万々歳、大満足となる映画となるだろうかとけっこう期待していたのだが、観終わった感想としてはだいぶ残念ということになるか。
 まあ結論的にいえば、もうさあヒュー・ジャックマンでミュージカルやめようよという感じだ。「レ・ミゼラブル」でも感じたことだが、ヒュー・ジャックマンラッセル・クロウっていい役者ではあるけど、絶対ミュージカル向きじゃないと思う。小粋さがまったくないし、なんか暑苦しい。50年代、60年代だって、例えばカーク・ダグラスやバートラン・カスター、チャールトン・ヘストンでミュージカル撮っただろうか。肉体美に満ちたアクション俳優、もちろん演技力もあるんだが、ある種の暑苦しさとセットになった彼らが小粋に歌い踊るかというと、絶対にそれはないだろうということになる。
 ヒュー・ジャックマンの歌も踊りも、まあまあそこそこに上手いとは思うのだけれど、そこには洗練されたものがないのだ。なまじ一生懸命なだけにたちが悪いという感じだ。
 さらにいえば、この映画にはダイバーシティ的な多様性の視点からサーカスの見世物として疎外された存在であった障害者やLGBTにスポットをあて再評価させるみたい部分がある。それはそれでいい。しかしミュージカルにそうした社会性が必要なのかどうか。
 個人的には好きな映画ではあるが、ミュージカル映画の最高傑作といわれる「ウェスト・サイド・ストーリー」「サウンド・オブ・ミュージック」に対しては辛口な評価がある。お気楽ストーリーのもと、優れてポップな歌曲と素晴らしいダンサーによるダンス・ナンバーをベースにしたミュージカル映画に社会性やリアリティを求めたことによってミュージカルの良さはどんどん形骸化されていった。
 ボブ・フォッシーの描いた「スィート・チャリティ」の後味の悪さ。社会派監督ロバート・ワイズが描いた「ウェスト・サイド・ストーリー」はニューヨークのマイノリティ同士の抗争に翻案した「ロミオとジュリエット」だ。ドレミの歌が楽しいジュリー・アンドリュースの「サウンド・オブ・ミュージック」もまた反ナチス映画なのである。
 そうした点からすれば、見世物扱いされるマイノリティを愛と同情的な眼差しという安易なオブラート化しているところなど、この映画の社会性はとてもとても薄っぺらい。見世物で人を驚かせ金儲けに邁進する興行師(山師)P・T・バーナムをいろいろあったけど基本、家族愛に溢れる好人物として描くあたりもあまりにも皮相というかなんというか。
 映画「地上最大のショー」等でも有名な鉄道で全米を興業したリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスのことはアメリカ文化史の名著でもあった「サーカス来た」で知ったと思う。サーカスというショーを通してアメリ大衆社会でショービジネス、娯楽がどのように消費されていたかを俯瞰できる本というような記憶がある。
 しかしアメリカショービジネスの成功者、例えばジーグフェルド・フォーリーなどに比してP・T・バーナムの山師的趣は半端ないものがある。その彼をこの映画のような好人物として描くところに、それでいてサーカスで見世物扱いされる者たちへの好意的な眼差しを矛盾なく描くのは正直無理があるのではないかと思う。
 まあミュージカルという意味ではそんなリアリティは必要ないし、どうでもいい話かもしれない。問題は暑苦しいヒュー・ジャックマンが歌って踊るミュージカルは、実はミュージカルではないという根源的な問題である。安易な設定、障害者たちを見世物として扱うバーナムもまたニューヨークの社交界では山師として差別される身であるという安っぽい重層性、それらも正直どうでもいい問題。ようはミュージカルとしての成熟性に致命的な問題がある。ダンス・ナンバーも今ひとつ、歌にしろそれぞれの芸にいたっても凡庸。どこをどうほめればいいのだろうか。