シェイプ・オブ・ウォーター

 遅ればせながらレンタルDVDで観た。アカデミー賞作品賞、監督賞を受賞した話題作。半魚人と孤独な中年の発話障害者の女性との恋を描いた作品。時代は冷戦真っ只中の1960年代、舞台は政府の秘密研究所。女性はそこで深夜勤務する清掃人。言葉を話せない孤独な女性、イライザ・エスポジートという名前からもヒスパニック系と思われる。深夜勤務の清掃人、おそらく社会の最底辺にいるような存在。
 SF的な展開ながら、雰囲気はまったく違う。1960年代という時代設定がレトロな雰囲気を漂わせる。半魚人と孤独な中年女性との恋愛というほとんどキワモノ的な設定でありながら美しい、ある種のお伽話となっているのはストーリーテリングの成せる技でもある。メキシコ人監督ギレルモ・デル・トロの見事な演出によるところが大だろう。
 おそらくこういった話はほとんどがこの映画に好意的な評価を与える映画評の受け売りであり、また映画を観た多くの者が普通に感じるところだろうか。
 しかしキワモノ的シチュエーションでありながら、そう感じさせないのはどういうところだろう。主人公サリー・ホーキンスがちっとも美人ではないところがそこそこのリアリティをもたらしているのか。この手の映画にありがちな、美人ではないヒロインが恋することで次第にキレイになっていくというのもお約束的に踏襲されている。
 彼女の友人であり仕事仲間の黒人女性は、DVでろくでもない亭主の話をしている。太った彼女はイライザの仕事上での友人、保護者であり、イライザをいろいろとサポートする。彼女もまたお約束の登場人物かもしれない。演じたオクタヴィア・スペンサーは割と最近よくみる女優でNASAでの能力がありながら、黒人女性であるということから差別され、きちんと仕事を評価されない科学者たちを描いた「ドリーム」の中でも、当時導入されたばかりの大型コンピュータを操作運営する有能なプログラマーを演じていた。やや太めの体躯にあって、大きな特徴的な目をもつこの女優は脇役として今後も活躍していくのではないかと思う。主役を喰うくらいの存在感をぎりぎりのところで抑えたような演技力は半端なく、観る者の記憶に留まり続けるように思う。
 その他の共演者たち、イライザの隣人にして友人、売れない中年の画家も奇妙な存在感がある。頭の禿げた冴えない彼はゲイでもある。
 主人公のイライザはヒスパニック系の障害者、彼女の友人は黒人でしょうもない夫のために深夜の清掃人を続ける女性。画家は広告代理店をリストラされた売れない画家にしてゲイ。彼らはみなマイノリティなのだ。差別され社会に疎外された者たちが、アマゾンから連れ去れてきた半魚人、しかも生体解剖される運命にある孤独な怪獣にシンパシーを感じ、彼を逃がそうとする。
 弱者を中心に据え、それと対峙する形で邪悪な存在として登場するのは研究所の警備主任。元軍人にして力と権力の信奉者。彼の存在はどことなくギミックでマンガチックでもあり、リアリティに欠ける存在だ。このへんはかってアメコミを実写化した「ヘル・ボーイ」を描いたギレルモ・デル・トロの真骨頂かもしれない。さらには半魚人を研究する科学者にしてソ連の二重スパイや彼を操るロシアのスパイ達もどことなく滑稽感があふれる。
 弱者たる主人公たちにはリアリティがあり、彼らと対峙する邪悪な者たちはギミックとして描かれる。そうした中で空想上の存在であるはずの半魚人もまたそこそこのリアリティを与えられる。このへんの配置が映画を成功に導いているのかもしれないと思ったりする。
 この映画はまた雰囲気、カメラワーク、凝った映像、1960年代的な舞台設定によって現代のお伽話的な雰囲気を醸し出すことにも成功している。
 うまくまとまらないが、この映画はここ最近観た映画の中でも抜きん出たものと思えた。ほとんど傑作といっていいかもしれない。とはいえある種限定的という括りの中ではあるけれど。なぜかしょせんは半魚人映画だからといってしまえばそのとおりだと思う。ゴジラはいつまでもゴジラ、怪獣映画でしかない。「ジュラシック・パーク」は恐竜を描いた娯楽映画だ。半魚人映画はどんな設定により人間を描いても完全なリアリティを確保できない。
 まあそれもまた映画である。しかもこれは1960年代、冷戦時代におけるアメリカ社会のマイノリティと科学技術によって疎外され絶滅していくであろう動物たちの比喩であろう怪物たちのファンタジーなのである。そういう寓意性が見事にはまった映画、しかも完璧な形でということで最高評価を便宜的に与えておく。