小杉放菴記念日光美術館 (1月3日)

 

 

 今年も美術館の初詣は小杉放菴記念日光美術館。

 ここは東照宮まで近い市営駐車場に隣接しているのだけど、駐車場の入り口で係の人に美術館利用と告げると2時間までは無料になる。

 今回の企画展は「五百城文哉生誕160年記念文哉と放菴」。日光に住み日光の風景画を「みやげ絵」として描き続けた五百城文哉とその弟子で、後に洋画から日本画まで画風を広げた小杉未醒=放菴の二人展だ。この二人の日光の名所を描いた風景画は、この美術館でも何度も観ているし、さらには京都近代美術館「発見された日本の風景」展、府中市美術館「ただいまやさしき明治」展でも観ている。ただし今回の企画展は、五百城文哉生誕160年記念ということで、質量ともにかなり充実している。もっともこれを目当てに来たという訳でもなく、たまたまというか、三が日だけ開館して4日から6日まで年始休館になるというので行っただけ。まあ偶然開かれていたというところだけど、けっこうラッキーだった。

展覧会・催し物|小杉放菴記念日光美術館  (閲覧:2024年1月9日)

 

 そもそも五百城文哉って誰か。配布されている『「五百城文哉生誕160年記念文哉と放菴」展解説付出品目録』に解説があるので引用。

https://www.khmoan.jp/cgi-bin/cms/cms_res/file/000/001/1701423349_1065.pdf

(閲覧:2024年1月9日)

五百城文哉(1863-1906)は、現在の茨城県水戸市に生まれた洋画家です。本名は熊吉。20 代のときに農商務省山林局に勤め、前後して高橋由一に西洋画を師事。その後、不同舎でも学んでいます。1892(明治 25)年、シカゴ万国博覧会への出品作制作のため日光を取材に訪れたのを機に永住。二社一寺周辺を描いた精緻な絵画をはじめ、高山植物の研究にともなう写実性に優れた植物画を数多く描きました。そして何より、少年時代の小杉放菴に絵画の基礎を教えたのが、この五百城文哉でした。

 そもそもなぜ五百城文哉は日光に永住して日光の名所を題材にした絵を描き始めたか。そのへんは江戸幕府の瓦解により、日光がそれまでの東照宮門前町としての繁栄が見込めなくなったこと、新たに外国人たちが観光地として日光の地を見出したことなどによるようだ。

 そのへんについては、「発見された日本の風景」展の図録に「描かれた日光と五百城文哉」(田中正史)という一文があり、詳細に説明されているので引用する。

日光には、アーネスト・サトウトーマス・グラバーといった、幕末から明治の初頭にかけて来日したイギリス人たちが、日本の蒸し暑い夏に辟易して、避暑に訪れていたが、さらに、彼らが中禅寺湖周辺を中心とする奥日光の自然に故郷であるイングランド湖水地方や、あるいはスコットランドのハイランズに似た風景を見出したことにより、その人気は高まっていく。

これは、1874(明治7)年に制定された、外国人の日本国内での旅行についての制限を定めた『内地旅行規則』において、横浜居留地在住者の病気療養地に日光が指定され、翌年の『外国人内地旅行免状』の誕生により、事実上、日光への旅行が解禁されたことに由来していたとされる。同年には、アーネスト・サトウによる『A GUIDEBUOOK TO NIKKO』という旅行案内書がジャパン・メイル社から発行されており、次いで1881年には、やはりアーネスト・サトウアルバート・ホーズと共同編集した『中央部・北部日本旅行案内』の初版がマレー社のハンドブックとして、横浜のケリー商会から発売されるなど、早くから国際的に紹介される機会にも恵まれていた。1893年に『中央部・北部日本旅行案内』の第3版として改訂された『日本旅行案内』の発行は、日光を訪れる外国人の数に。さらに拍車をかけることになる。

 こうして日光を訪れる外国人観光客が本国に持ち帰るために、気に入った名所旧跡や景勝地や日本の風俗などの水彩画が「おみやげ絵」として売られていた。

 日光では五百城文哉や小杉未醒らその弟子たちが、また横浜では五姓田芳柳やその子義松らが「おみやげ絵」の制作を担った。さらに文哉や未醒らも学んだ小山正太郎の不同舎出身の画家たちも外国人向けの「おみやげ絵」をさかんに描いていた。

 そうした「おみやげ絵」の中でも、五百城文哉や小杉放菴の作品は充実度も高く、二人を中心に日光では五百城文哉派のような集団が形成されていたとも指摘されている。

 五百城文哉については小杉放菴記念日光美術館が多くの作品を収集しているが、比較的最近まで忘れられていた画家であり、1906年に42歳で亡くなっている。1983年に生まれ故郷の水戸市の博物館で回顧展が開かれてから、その画業が脚光を浴びるまでは、小杉放菴が自らの師匠として紹介するのみだったといわれている。

 その五百城文哉が日光で絵を描くことになったか。それは日光の名士として地場産業の振興に尽くした守田兵蔵という人物の存在があったからだ。

 守田は1894年(明治27)に、自邸に美術工芸品を陳列する鐘美館を開設し、「日光」の名を冠した工芸品や絵画を創設しようとした。当時、日光にすでに居住していた五百城文哉が招かれて「日光絵画」的作品を制作する担当となったのではと指摘されている。文哉は守田兵蔵の鐘美館と契約し、日光の名所を描いた水彩画を制作することで一定の収入を確保できたという。

 さらに文哉は高山植物の百花譜を得意としており、それは初期のボタニカルアートとして、植物学者たちからも評価されたという。

 守田兵蔵が鐘美館を開設したのも外国人観光客の受容があったからだが、その趣向に合わせた水彩画にはヨーロッパの新しい自然観や風景の見方、制作技術などが取り入れられており、五百城文哉の作品は水彩画の本場イギリスでも高い評価を受けることになった。

 「おみやげ絵」という、今でいえば絵葉書のようなイメージもあり、芸術的にはやや低い感じもしないでもないが、何気ない日常にも美があること、懐古趣味的な神社仏閣の風景のなかにも日常的な人物を配置するなどして、生活の中の「詩情」を見出すような画風は、日本美術史に新たな日本の風景画を見出すことに繋がっていった。

 おりしも時代的には、フェノロサ岡倉天心による日本画の偏重と洋画排斥の時代、作品に求められるのは芸術性、精神性という風潮の中で、詩情あふれる日本の原風景を描いた風景画が誕生していた。その担い手が「おみやげ絵」を描いた五百城文哉や小杉放菴だった。

 まとめて文哉、放菴の絵を観ていくと、特に小杉放菴の作品には「おみやげ絵」的な類型からじょじょに作家性や西洋絵画の影響、バルビゾン派印象派的な要素を帯びていくことが感じられた。さらに放菴はそれをも脱して、万葉風の洋画や洋画と日本画を折衷したような独自の画風へと変化していく。文哉から未醒、そして放菴へと画風の変化を感じさせるような、なかなか面白い企画展だった。

 しかし正月の3日、みんな寺社仏閣への初詣はしても美術館によるということはないのだろう。今回も館内は閑散としていて、観覧者は我々夫婦二名だけだった。

 この企画展1月28日までなので、日光を訪れる方には少しでも足を運んでもらいたいと少しだけ思ったりもした。

 

<作品はすべて小杉放菴記念日光美術館所蔵>

東照宮・陽明門》 五百城文哉 1892-1905年頃 紙・水彩 75.5×118.0cm

 

《滝尾神社・鳥居》 五百城文哉 1892-1905年頃 紙・水彩 46.7×62.7cm

 

《神橋》 小杉未醒 1901年頃 紙・水彩 34.0×50.9cm

 

《黄初平》 小杉未醒 1915年 カンヴァス・油彩 52.0×45.3cm