カレーについてとその他いくつかの事柄

 通信教育のレポート課題でなぜか「カレー」をテーマにした企画書を作成しろという。いいかげん勘弁して欲しいと思う。遠い昔の学生時代の試験でまったく太刀打ちできず、カレーラースの作り方を書いて「可」をもらったこと思い出した。あれはなんのテストだったか、債券各論とかそのへんだったような気がしているが定かではない。しかしなぜに「カレー」なのだ。

 ということで今日は半日図書館にこもって資料を漁っていたのだが、ディープ埼玉の市民図書館の蔵書に期待してもしかたがないか。文化史の棚で何冊かそれらしいタイトルの本を探して、目次を書き出していった。その一冊が読みだすとけっこう面白かったりして、途中からもうレポートとかそういうのはどうでもよくなる。昔から寄り道が大好きな子どもだった。

 講談社学術文庫の一冊だが図書館にあったのは親本の単行本。2002年6月発行で講談社選書メチエのもの。著者の小菅桂子氏は日本の食文化の研究家で、2005年に72歳で亡くなられている。この本は死ぬ3年前に上梓されたものだが、学術文庫でも版を重ねているので、ある種日本でのカレーライスのについてよくまとめられた読み物なのだろう。

小菅桂子 - Wikipedia (閲覧:2023年11月22日)

 

目次を拾うとこんな感じである。

プロローグ カレーはじめての物語

第一章 カレー美味の秘密

1.スパイスに憑かれた人びと

2.スパイスを愉しむ

第二章 カレー伝来の道

1.多様な国=インド

2.英国を風靡したカレー

第三章 カレー日本史事始

1.食の文明開化

2.お雇い外国人と西洋野菜

3.カレー三種の神器 ※タマネギ、ジャガイモ、ニンジン

第四章 カレー繁盛記

1.和洋折衷カレーのあれこれ

2.即席カレー、カレー南蛮、カレーパン—カレー変奏曲

3.明治の食卓

第五章 カレー二都物語

1.本格インドカレーの誕生—中村屋カレー物語

2.繁盛する阪急百貨店食堂

3.カレー、日本を駆け巡る

第六章 カレーの戦後史

1.貧困からの出発

2.レトルトカレーが誕生したとき

3.カレーの現代史

エピローグ 日本人の知恵とカレー

 

 特に第五章のカレー二都物語の部分が面白い。東京のカレーは新宿中村屋の物語、関西は阪急百貨店のいわゆるデパート食堂のカレーである。

 新宿中村屋のカレーはもちろん何度か食べたこともあるし、創業者の相馬愛蔵と黒光(良)は中村屋サロンを作り若い芸術家や亡命外国人を支援していたことも知っている。

中村屋サロンの歴史│創業者ゆかりの人々│新宿中村屋 (閲覧:2023年11月22日)

 

 その中で例えば早世した中村彝は愛蔵、黒光の娘俊子をモデルに裸婦像を描き文展に出品する。次第に俊子にひかれていく彝は結婚したい旨を申し出るが、結核にむしばまれていた彝との結婚を愛蔵、黒光は許さず、中村彝は失意のうちに中村屋サロンから去る。その後俊子は、亡命し中村屋に匿われていたインド独立運動家ラース・ビハーリー・ボースと1923年に結婚し一男一女をもうけるが、2年後に26歳で亡くなる。ボースが中村屋にインド式のカレーを伝授した人でもある。

《少女裸婦像》 中村彝 1914年

 また中村彝は当時やはり中村屋に寄宿していたロシアの盲目の亡命詩人エロシェンコ肖像画を描いている。エロシェンコ中村屋ピロシキボルシチの作り方を教え、その後中村屋のメニューに加わっている。

 

エロシェンコ像》 中村彝 1920年

 この絵は当時ルノワールに傾倒していた中村彝のある意味ルノワールの受容的作品。1977年に重文指定を受けている。

 

 また彫刻家萩原守衛相馬黒光をモデルに《女》を制作している。守衛は2歳上の人妻黒光に恋し煩悶する。そうした思いがこの作品にどこか透けてみえる。守衛の絶作でもある。

《女》 萩原守衛

 奥にあるのは同じ萩原守衛の《文覚》。文覚は平安時代末期の僧侶で、人妻に懸想してその果てに殺してしまうという過去を背負っている。萩原守衛は自分の黒光への思いを文覚に重ね合わせたともいわれている。この二点は以前、東近美で近接して展示してあった。文覚が見つめる視線の先にあるのは恋しい女黒光である。東近美も粋な展示をするものだと思ったりもした。

 

 カレーからの脱線だがまあそんなものだ。中村屋はもともと本郷の東大前にあったパン屋で、それを1901年に相馬愛蔵、黒光が譲り受けて屋号をそのままに経営を始めたのだという。早稲田を出た愛蔵、明治女学校出身の黒光の二人は学校出ということで、書生パン屋と呼ばれ繁盛したという。そして1904年にクリームパンを発明、1907年に新宿に移転して新宿中村屋となった。

 

 一方、阪急百貨店の食堂のカレーは、1929年にオープンした百貨店の食堂の人気メニューとして定着したという。1936年には一日13000食も出たという記録もあるという。当時、食堂のサービスメニューには「ソーライ」というのがあったという。これは各テーブルにソースと福神漬けが常備されていて、貧乏な学生たちがライスだけを頼んでソースをかけて食べた「ソースライス」が略されて「ソーライ」になったのだとか。

 

 また地方にカレーライスが伝播した理由は、カレーが軍隊食として定番メニューだったことからだという。通常の食事でいえば、米飯、おかず、汁物が一般的だが、カレーライスはおかず、汁物、米飯が一体化されていたこともあり、軍隊食として広まったという。徴兵を終えた地方出身者たちが故郷に戻ってカレーライスが食べたいという要求から、地方でもじょじょにカレーラースが食堂などでメニュー化されたのだという。また海軍カレーも同様に軍艦内で出されるメニューから広まったのだとか。

 

 脱線やらカレーについての無駄知識など、まあまあ面白く読めた。『カレーライスの誕生』のほかにも数冊、カレーについての読み物を目次読みしたりして午後を過ごした。はてこの無駄知識をもとにレポート書けるのだろうか。

 

中村屋 - Wikipedia (閲覧:2023年11月22日)

相馬黒光 - Wikipedia (閲覧:2023年11月22日)

カレーの日本史 大正・昭和初期 | カレー辞典 | カレーハウス | ハウス食品

(閲覧:2023年11月22日)