作家業は司書を続けるため

 「作家業は司書を続けるため」

 非正規の図書館司書として働く作家佐原ひかりさんのインタビューが、朝日新聞11月5日朝刊文化欄に載っていた。

(閲覧:2023年11月7日)

《本にまつわる仕事をするのが夢だった。私立大学の図書館でアルバイトをしながら司書の資格を取り、バイト2年目からは非正規雇用の臨時職員となった》

 元々、作家志望だったわけではありません。小説を書き始めたのは、図書館で働いていてもお金がなかったからです。2017年にコバルト短編小説新人賞を受けた作品は3、4日で書き上げました。賞金20万円は大きかった。

《司書の仕事は1日7時間の週5日勤務で、月の手取りは約14万円。生活はギリギリだった》

 臨時職員の仲間は全員女性で、みんな実家暮らしか既婚者。契約は3年で更新されないので、それまでに次の働き口を探す必要がありました。2年半働いたところで図書館を離れ、もっと給料の良い会社に転職しました。でもそれは、むしろ司書として働き続けるための選択だった。一度違う職に就いて、お金をためてから戻ろうと思ったんです。

 作家になることを夢見て図書館でアルバイトをしているのではない。図書館で仕事をするために小説を書いて糊口をしのいでいるのである。これってどんな逆説なんだろうか。

 1日7時間週5日勤務はパートタイムではない。フルタイム労働者だ。それで手取り約14万円である。これはとても生活できない。「臨時職員の図書館司書が全員女性でみんな実家暮らし」とは・・・・・・。

 

 もともと図書館司書はレファレンス・サービスを行う専門職である。図書館が「知」のアーカイブとして存在しているとしたら、そこから利用者が適切に「知」を活用するためのアシストを行う高い専門性が必要な職業だ。

レファレンスサービス - Wikipedia (閲覧:2023年11月7日)

 情報社会、IT化がと呼ばれる社会にあって、その情報を的確に取捨選択するためには、レファレンス業務不可欠なはずなのに。なぜその仕事が非正規労働によって担われているのか。

 

 今は情報社会だ。情報は、「知」はいくらでもネットで得ることができる。本当にそうか。ネットに氾濫する情報は玉石混交だ。偽情報や出所も明らかでない不確かな情報で溢れている。その中から適切な情報を選び出すには、高度な専門性が必要だ。そしてそもそもその簡単に得られる情報のデーターベースは、しかも無料で得られるデーターベースは誰が作っているのか。

 かってGoogleは世界のすべての情報、「知」をネット上にアーカイブすることを夢想して始められた。IT界の巨人、世界を牛耳るプラットフォーム企業はもともとは、聡明かつ知的な、そして相当なオタクでもある学生たちの、崇高かつ夢的な部分が始まったと何かで読んだことがある。

 しかしわずか20数年の間に、その崇高な理念(果たしてそうだったのだろうか)は消え、今では最大利益を追求する巨大プラットフォームとなっている。

 考えてみよう。我々は今普通にGoogleの検索によって情報を得ている。何か食べたいときには「美味しいという評判のお店」を検索する。誰かになにかをプレゼントするときには、「そこそこ豪華で、喜ばれそうななにか」を検索する。そこから得られる情報は当然無料だ。

 個人が検索する情報は、個人の趣向とともにGoogleのデーターベースに蓄積され、その情報をGoogle自身がマーケティングのために利用する。さらにはそうした個人情報の蓄積を他社のマーケティングのために売っている。さらには検索によってプロファイルされた個人の趣向をもとに、適切と思われる商品情報が提供される。ポータルサイトや検索ごとにポップアップされる広告はそれぞれの検索履歴と紐づいている。

 無料で使える秀逸な検索サービス、それによってもたらされる情報はすべて、マーケティングに紐づけされている。それが21世紀の現在の状況だ。そうした巨大プラットフォームの実態、無料の検索サービスをだしにして個人情報を自由に利用することで大きな権益を得る実体を告発しているのは、元Googleの社員で、現在はChatGPTの危険性について警鐘を鳴らしているメレディス・ウィテカーだ。

ChatGPT、何が問題か 元グーグル社員「非常に無責任で無謀」:朝日新聞デジタル

(閲覧:2023年11月7日)

Meredith Whittaker - Wikipedia (閲覧:2023年11月7日)

 

 それに対して図書館のアーカイブは、基本的に蔵書によって成立している。単館で所蔵しない書籍も図書館のネットワークで他館の蔵書を利用できる。蔵書はネットのゴミ情報が溢れるようなことはない。もちろん蔵書には一定の選書基準があるが玉石混交とまではいかないはずだ。毎日多数の書籍が刊行され、返品率が4割以上という状況下では、書店店頭にも行きつかずに返品され、あるいは市場にでることなく出版社の倉庫からそのまま断裁されるような大量の消費財的な出版物はそもそも蔵書されることもないかもしれない。

 そして一番重要なことは、図書館の蔵書は原則として無料であり、利用者はその利用状況、貸出リストや本人の思想や趣向をもとに、マーケティングのための一要素化されないということだ。図書館で本を借りた人間は、次回図書館を訪れたり、図書館のネットによる検索サービスを利用した時に、Amazonのように「あなたに相応しい本はこれ」的な情報は提供されないのだ。

 そして図書館で、必要な本を、必要な情報を得るための手助けをするのが、レファレンス・サービスであり、それを担うのが図書館司書である。司書は大学4年間の間に、必要な単位を取れば得ることができる資格だ。「図書館概論」「図書館情報資源論」「情報サービス論」などなど。しかし資格さえ取れば誰でも図書館司書の仕事をこなすことができるかどうか。

 多分、それは違うと思う。図書館での勤務、最初は窓口や貸し出しサービスから、選書、蔵書管理、レファレンス・サービス、それらを長いキャリアとして積み重ねることで担うべき専門職なのだ。

 よく図書館司書と比較される学芸員資格、実際に資格をとった人に聞くと、博物館で勤務できるのは大学4年間で学芸員資格を取得したうえでさらに大学院で勉強する必要がある。あの仕事は研究職、大学の先生と同等かそれ以上の専門性が要求されるということだった。しかしそうした専門性を得ても実際に学芸員として職業に就くことができるのは限られた人だし、もし実際に仕事に就いたとしても、それが非正規雇用であったり低賃金であったりという話もあるのだ。

 この国は知的な仕事、「知」を扱う仕事をあまりにも低く考え、その従事者を社会の底辺に追いやっている。反知性主義に覆われた国、社会、それがこの国の実相なのかもしれない。社会で高収入を得るのは、金融商品を扱う者やエージェントという名の中間搾取者たちばかり。そういう社会に成り下がっている。

 

 図書館司書がなぜこのような社会的底辺業務に追いやられたのか。それはいつ頃のことだったのだろう。以前の新聞記事にそのヒントとなるようなコメントが載っていたのを思い出した。

(閲覧:2023年11月7日)

 2022年11月24日の記事だが、そのなかで立教大学の上林陽治特任教授は、自治体の図書館司書が非正規化した背景をこう説明している。

地方自治体はバブル崩壊後、財政が悪化し、人件費を削るために正規公務員を減らし、かわりに非正規職員を採用してきた。特に動きが目立ったのが、図書館司書や保育士、文化行政など。「専門知を高めても良い待遇を得られない。能力がないから正規になれないのではなく、正規の職がないのが現状だ」と指摘する。

 ここでもまた繰り返されるバブル崩壊後の「失われた〇十年」である。民間企業の正規社員を減らし、その波は公務員にも向かった。人件費を削り非正規化を進める。その結果はどうなったか。日本の国際競争力は相対的に低下し、社会の格差は大きく広がった。

 公務員を減らすというときに真っ先にやり玉にされた図書館司書。おそらくその業務は派遣やアルバイトで事足りると考えた連中は、どうせ図書館司書なんて図書館の貸し出し係だろ。あんな中学や高校の図書係みたいな仕事はパートやアルバイトで十分だということだったのだろう。

 図書館の蔵書予算を減らし、図書館司書を非正規化させる。そういう文化行政を続けた結果がどうなったか。たとえば日本の知的レベルは、大学の研究レベルでも、世界の中で大きく劣るようになっている。世界の大学ランキングでも欧米や中国、シンガポールの後塵を拝し、100位以内に東大、京大が入るだけという状況だ。基礎研究を重視せず、実学、金儲けになる即効性、ようは「知」のコストパフォーマンス化をすすめてきたことが要因だが、図書館行政を含めた文化行政の敗北ではないかと思ったりもする。

 日本はバブル崩壊からまったく抜け出せないままで没落を続けてきたのかもしれない。

 

 図書館の職員の76%が非正規雇用で、その多くが3年で更新されない。1年単位の契約を何年も続けた場合には、正規化する必要が生じるからである。でも、もし正規化したとしても非正規の時のままの賃金でもいいという法律の抜け穴もある。そして非正規の図書館職員の平均給与は13万5千円とされている。さらに図書館職員の81%が女性である。

 低賃金かつ非正規労働は女性によって担わせる。これがここ数年、保守党政権がうたってきた女性活躍社会の姿だ。

 

 図書館の蔵書予算を増やし、専門職員の待遇を改善する。総じて文化行政全般を見直す。この国にはそれが必要なのだと思う。図書館司書の待遇が改善されれば、その多くが女性であることを考えれば、女性の社会的待遇の改善にもつながるのだ。

 文化に使う金がないという一方で、箱物やイベントには湯水のように公費が投入される。オリンピックや万博にいくらの金が使われているのか。あれは投資であり、箱物はレガシーとして残る。いやそれは様々な利権につながる。目先の土建屋デベロッパー、イベント会社に金が落ち、おそらくそれが利権的に還流するにちがいない。

 箱物よりも知的な価値への投資の方が将来的な価値が生まれるのではないか。バブル崩壊の後、保育士の賃金も低減化され、保育園などの整備にも金が回らなくなった。それが今、子育て世代を直撃し、少子高齢化に歯止めがかからない状況につながっている。箱物ではなく、人に投資する。それは短絡的なコストパフォーマンスではなく、将来につながっているはずだったのだが。

 

 図書館司書の低賃金、低待遇、それらは本にまつわる仕事の特殊な例ではないと思う。長く本を扱う仕事についてきた自分にとって、出版がある意味かってのマスメディアとしての仕事という意味で死にゆく様を自分のキャリアの終盤になって目の当りにした。でも出版は知的創造物の入れ物でもあり、マスではなくてもニッチな存在としてけっしてなくなることはない。商売としての出版がかってのような形で生き残ることはないとすれば、その分、人々が本に触れる機会を図書館がより一層担っていくのではないかと漠然と思ったりもする。

 それを月給13万5千円の非正規職員が担っていくという暗鬱たる状況。

 ひょっとして誰かの頭の中には、利用者が端末検索すると、閉架式の蔵書からペッパー君が本を持って利用者に提供するような未来でも描いているのだろうか。笑いごとではないのだが。