『街とその不確かな壁』読了

 16日だったかようやく読み終えた。発売は4月13日、当初今回はパスかなと思ったりもしたのだが、周囲も読み始めたりしていたので5日後くらいに電子書籍で購入。ほぼ一ヶ月くらいで読了。もっとも最初はあまり読んでなくて、本当にダラダラとしていたので、休み休み読んでいた感じ。連休明けくらいからは割と集中して読んだよし、読書にドライブがかかったというか惹き込まれたみたい。

 この小説は著者のあとがきにもあるけれど、以前書いた中編『街と、その不確かな壁』及び『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のリマスター版みたいなもの。雑誌に発表した『街と、その不確かな壁』の内容に著者が納得できず、その後単行本としては未収録なままになっていた。その一部は『世界の終わり~』に取り込まれていたが、今回再度その中編をリマスター化したというもの。『街と、その~』と『街とその~』、読点が入るかどうかで区別しているみたい。

 読後感としては途中で読みながらも感じたことだけど、村上春樹は変わらない、老成しないということ。そしてその感性や文体はデビュー当時とさほど変わっていないということ。それを良しとするかマンネリとするか、あるいは一部書評家が酷評するように「キモイ」とするか。

 1949年生まれ74歳となる村上春樹がかっての村上春樹小説そのままの世界を提示してくれることに、彼を同世代的に享受してきた読者はどう感じるだろうか。年老いても変わらない村上春樹と、当然年齢を重ねてきた読者たち。60代の後半に足を踏み込んだ自分はというと、相変わらずの村上春樹にちょっとした嬉しさを覚えながら読んだ。アメリカナイズされた文体、比喩表現、マンネリで何が悪いかというところか。

『街とその不確かな壁』は、仮象と実体をめぐる書と言えるだろう。 虚と実、夢と現(うつつ)の境を深く追究する。壁、壁抜け、影、図書館、記憶喪失、夢読み、穴、井戸、洞窟、突然いなくなる女性……など村上春樹レパートリー総棚ざらいという観もあり、その点は前長編『騎士団長殺し』と同様だ。

鴻巣友季子の文学潮流》
真実と虚構、二項対立超える物語の力 村上春樹「街とその不確かな壁」を読む 鴻巣友季子の文学潮流(第1回) 20230427

真実と虚構、二項対立超える物語の力 村上春樹「街とその不確かな壁」を読む 鴻巣友季子の文学潮流(第1回) |好書好日 (閲覧:2023年5月21日)

 翻訳家・評論家、鴻巣友希子は今回の村上春樹の新作をこんな風に評している。確かに「村上春樹レパートリーの総棚ざらい」だ。これが大いなるマンネリズムと評されたりする部分かもしれないが、74歳という年齢を考えたときに、村上春樹がある種の棚卸を行ったのか、あるいは読者への精一杯のサービスだったのか、諸々考えたくもある。

 この小説の中で描かれる壁の中の世界、それは主人公が頭の中にこしらえた世界、いわば精神世界の空想的産物だ。それは『街と、~』、『世界の終わり~』、そして今回の『街とその~』いずれも変わらない。ただし今回の小説ではその空想世界16歳の少女である<きみ>が17歳の少年<ぼく>に語ったものだ。そして二人はその空想世界を創り上げることに熱中し永遠の愛を誓う。

きみが高い壁に囲まれた特別な街の話を語るようになってからは、それがぼくらの会話の主要な部分を占めるようになった。(16P)

その街はもともときみがこしらえたものだ。あるいはきみの内部に以前から存在していたものだ。(16P)

そしてぼくらはやがて二人だけの、特別な秘密の世界を起ち上げ、分かち合うようになった──高い壁に囲まれた不思議な街を。(27P)

 同じように『世界の終わり~』の中では影にこう語らせる。

この街を作ったのは君自身だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。(616P)

ディタッチメントとコミットメント

 『街と、』にしろ『世界の終わり~』にしろ、主人公は精神世界のなかにとどまる。そのことによって『世界の終わり~』でリアル世界の存在=意識を失う。車の中でディランの『激しい雨』を聴きながら。しかし今回の『街とその~』で、主人公は壁の中ではなく、リアル社会での生活を選び壁の世界が抜け出ようとする。これは村上文学のもう一つの基調にあるディタッチメントとコミットメントの絡みになるのかもしれない。

 もう一つ、この小説はコロナ禍の2020年から書き始められたと「あとがき」にある。そのことがこの小説の<壁>と精神世界にもう一つの意味を与えたのかもしれない。<壁>はロックダウンのメタファーの意味を付与され、壁から抜け出すことは、コロナ以後の生活を示唆するのかもしれない。コロナは村上春樹にも様々なテーマ性を与えているのかもしれない。

 自分はこの小説を『ねじまき鳥~』以降の村上文学、ディタッチメントとコミットメントというテーマ性の延長として読んだように思う。彼はもう精神世界にだけ留まっていることが出来ないハードな世界に生き続けているという意味で。

 以下はなんとなく思いついたこと。

名前のもつ意味

 この小説に出てくる人物は少なく限定的だ。「ぼく」、「きみ」と「僕」、「私」、「君」という区分け。名前のある人物とそうでない人物。同じ人物の分裂。人物の消失などなど。

小説上のリアル社会の登場人物

<名前のある人物>
大木・・・・・・取次の後輩
子易・・・・・・私設図書館の館長
添田・・・・・・私設図書館の司書。三十代半ば、身長160センチくらい。学生試合バスケットボール選手。
小松・・・・・・駅前に店舗を構える不動産業者

<名前のない人物>
ぼく・・・・・・17歳のぼく
きみ・・・・・・16歳の少女
45歳の私・・・・・・書籍販売会社に勤める
名前のないコーヒーショップの女性
イエロー・サブマリンの少年・・・・・・サヴァン症候群のヨットパーカーを着た少年
イエロー・サブマリンの少年の父
イエロー・サブマリンの少年の長兄、次兄

<壁のなかの人物>
壁のなかの私・・・・・・夢読み
門衛
図書館の君・・・・・・夢読みのアシスタント

近所に住む老人・・・・・・かっての軍人

 名前のありなしに意味性はあるのか。なんとなくそれを意識したことがあったが、どこかでそれは消失したのかもしれない。なんとなく名前のありなしが実体と影を区分するような何か。でも多分そこにはなにも意味はない。

 福島の地方の町とそこにある私設図書館。そこで登場する人物もどことなく象徴性、意味性を憶えていたのだが、今一つ展開されないままだったかもしれない。

添田さんと名前のないコーヒーショップの女性

 図書館司書の添田さんは当初、魅力的な女性となりそうな雰囲気と死者と主人公をつなぐ存在としても重要なポジションになりそうな感じがあったが、いつのまに中途半端な存在になった。

 そして添田さんが背景に押しやられるのと同じく名前のないコーヒーショップの女性が前景化してくる。主人公とは恋愛的な感情を抱き合いながらもある事情からセックスはない。

 この二人の女性は田舎の町での余所者同士ということで主人公とは交流しあうべき配置されていた。特に添田さんはかなり細かく人物像を最初に描き出している。

添田さんはおおよそ 三十 代 半ば、 さっぱりとした 顔立ちの、 知的な印象を与える女性 だっ た。 身長は一六 〇センチくらい、 体つきも顔立ちと同じように細身だ。 姿勢 がよく、 背筋がまっすぐ伸びて、 歩き方もきれいだ。学生時代はバスケットボールの選手だっ たという。いつも膝下あたりの丈のスカートをはき、歩きやすい低いヒールの靴を履いていた。 化粧気はあまり( ほとんど)ないが、 肌は美しい。耳たぶは丸く、 浜辺の小石の ように つるりとしていた。 うなじは細いが、 弱々しい印象はない。ブラック・コーヒー が好きで、 カウンター内の彼女のデスクには常に大ぶりなマグが置かれていた。 マグには 羽を広げた カラフル な野鳥の絵が描かれていた。 見たところ、 初対面の相手に簡単に心 を許すタイプの女性ではなさそうだ。 その目には常に怠りなく 用心深い光が浮かび、 唇 はきりっと挑戦的に結ばれている。でも私は、 最初に会って話したときから なんとなく、 彼女とはそのうちに親しくなれるのではないかという気がしていた。 たぶん この小さな 町における「 よそ者」 同士 として。(245P)

 彼女は人妻で夫は同じ町で小学校の教師をしている。でも夫については語られることもなく登場もない。一方で添田さんが後景化するとともに主人公と絡むことになる名前のないコーヒーショップの女性についてはこんな風に語られる。

東北の山中の小さな田舎町に、風に吹き寄せられるようにやって来た独り身のよそ者たちだ。もともとの知り合いは一人もいない。この先そこに根を下ろすのかどうか、それも定かではない。(488P)

 村上春樹の小説では二人の性格の異なる女性が相次いで登場することがある。古くは 『ノルウェイの森』の直子と緑だったり、『国境の南、太陽の西』の島本さんとイズミであったり。陰キャラと陽キャラという性格分けはある種の死や喪失という負のイメージと生や復活という正のイメージであったり。

 ときにそうした異なるキャラクターの女性は、実は同じ人物の分裂ではないかと思ったりもしないでもない。一方のキャラクター、陰キャラの存在が消滅すると、その後に陽キャアが出現する。死と生が不連続ながらもどこかで繋がっていくような。

 添田さんと名前のないコーヒーショップの女性。別に同一人物の分裂は言い過ぎかもしれないが、狭い閉鎖的な田舎町での余所者であり、どこか知的、都会的な雰囲気のあるやせた30代半ばの女性だ。

ふくらはぎフェチ

 どうでもいいことだが、村上春樹には女性のふくらはぎに対するどこか性的なフェティシズムがあるのかもしれない。少なくともこの小説の中では。

  • 17歳のきみの「濡れたふくらはぎに濡れた草の葉が 張り付き、 緑色の素敵 句読点となっていた」という記述。(P8)
  • 脚立にのって上の棚から古い夢をとるきみの「長いスカートの下からのぞいている 君の脚は、すらりとして白く、若々しい。 その美しい形をした瑞々しいふく ら はぎに、心ならずも見とれてしまうことになる。(P101)

  • 「彼女(添田さん)は若草色のフレア・スカートの裾を翻して、自分の持ち場に 引き上げていった。 彼女の健康的なふくらはぎが私の網膜に残った。(424P)

消失

 村上春樹小説の中では登場人物が唐突に姿を消す。消失する。古くは『羊をめぐる冒険』の耳のモデル、『納屋を焼く』の彼女、『ダンス・ダンス・ダンス』のキキなどなど。『国境の南~』の島本さんもそうかもしれない。

 その消失にはいろいろな解釈もあるし、いろいろと突っ込まれることがある。今回の『街とその不確かな壁』でも、なぜ十六歳のきみは突然姿を消すのだろう。十七歳のぼくはなぜもっと真剣に「きみ」を探す努力をしなかったのか。非情緒的な一般論的に想像すれば、「きみ」は精神を病んで病院に入ったか、自死したか、あるいはその両方か。そう『ノルウェイ~』の直子のように。

 村上春樹は大切な者の死を、その喪失の大きさを情動的に描いたり説明したりすることなく、消失という非情緒的な言葉で片づけているのかもしれない。なぜかその喪失感が村上文学のほぼ総てに通底するテーマであるからなのかもしれない。

 十六歳の「きみ」、十七歳の「ぼく」にとって永遠の愛の対象であった彼女の消失はおそらく死と直結しているのだろう。だからこそ「ぼく」は「きみ」とひと夏をかけて構築した精神世界=壁に囲まれた世界に拘り、いっときはそこに暮らそうとしただ。『世界の終わり~』の主人公がそうしたように。しかし21世紀の現代にあって自閉した世界、内省的な世界の中で完結して生きてゆくことは困難なのかもしれない。

再びディタッチメントとコミットメント

 ディタッチメントとコミットメントという単純な図式がそのまま換用できれば、21世紀の現代にあって我々は、好むと好まざるとにかかわらず世界にコミットしていかざるを得ないのかもしれない。リアルな疫病にしろメタファーとしての疫病にしろ、ロックダウンしたままでそれは解消されないのだから。

マジック・リアリズムについて

 マジック・リアリズムとは、ラテンアメリカの作家たちが多用する技法、作風であり、魔術的リアリズムと称される。それは一見してリアリズム的な枠組みの物語のなかに、突如非現実的な出来事、情景の描写を介入させる。そこでは生者と死者や過去の人物と現在の人物、さらには未来の人物が交差したりする。

 今回の小説でも死者が登場し生者と対話し、ある時は生者を動かす意思決定に関与する。その整合性について村上春樹は自ら小説の中の人物に、ガルシア=マルケスについて語らせる形で、マジック・リアリズムについて言及する。

彼の語る物語の中では、 現実と非現実とが、生きているものと死んだもの とが、ひとつに 入り混じって いる」と彼女は 言った。「 まるで日常的な当たり前の出来事 みたいに」「そういうのをマジック・リアリズムと多くの人は呼んでいる」と 私 は言っ た。「そうね。 でも 思うん だけど、そういう 物語のあり方は批評的な基準では、マジック・リアリズム みたいになるかもしれないけど、 ガルシア゠ マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。 彼の住んでいた 世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのよう な情景を見えるが ままに書いていただけじゃない のかな」(P587)

 ガルシア゠マルケス、生者と死者との分け隔てを必要とはし なかったコロンビアの 小説家。

 何が現実であり、何が現実ではないのか?

 いや、そもそも現実と非現実を隔てる壁のようなものは、 この世界に実際に存在し ているのだろうか?

  壁は存在しているかもしれない、と私は思う。いや、間違いなく存在しているはず だ。でもそれはどこまでも不確かな壁なのだ。場合に 応じて相手に応じて堅さを変え、形状を変えていく。 まるで生き物のように。(P598)

 とりあえずしばしの小休止のあとで、旧作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読しようと思っている。