墓参りに行く (9月14日)

 伊豆に小旅行に行く途中に墓に寄った。

 年に数回行く伊豆旅行なので、なんとなく弛緩しているせいか、出かけるのがいつもより相当に遅く、10時近くになってようやく家を出た。

 そのまま順調に進めても熱海あたりに着くのは1時くらいになる。とくに観光するところも、行きたい美術館とかも今回は特にない。妻は前日あたりから風邪気味で喉が少し痛いという。さてとどうするか。

 そういえばお盆に墓参りに来ていない。春のお彼岸に来て以来だろうか。秋のお彼岸は一週間後だけど、混雑するときには来たくない。車を止めるスペースも限られているし、車椅子を押して長い坂道を押すなんてことはとても無理だ。ということで少し早いが墓参りしていくかということにした。どうせ急ぐ旅でもあるまい。

 いつものように圏央道のインターで降りてから10分ほど下道というか、山道、田舎道を走ると墓に着く。今回はちょっと通り過ぎて、近くで花や線香を買えるところを探してみると。このへんは昔は本当になにもないところだったが、だいぶ開発されてきたし人家も増えている。愛甲郡という神奈川でもとびきり辺鄙なところだが、隣接する相模原市はいつのまにか政令指定都市になってしまった。近くに高速道路はあり、工業団地もあるし、住む人も増えているのだろう。

 墓から少し車を走らせていくと案の定、ちょっとした規模のショッピングモールが見つかった。スーパーとホームセンターとドラッグストアなどが併設されたやつだ。そのホームセンターに入ると、墓参り用の供花や線香も売っている。そこでいつものように二軒分の花と線香を買う。

 墓についたのはちょうど昼頃だったか。ウィークデイの昼時なので当然のごとく空いている。墓と墓の間に芝生の草刈り機が無造作に置いてあったりしている。草刈り作業もちょうどお昼休憩に入ったところだろうか。

 見ると芝生墓地のあちこちで芝生も丈がだいぶ伸びているし、ところどころに雑草も生えている。いつも来るときは芝生もきれいに刈られているし、雑草もあまり見当たらない。まあこういう風に作業をしてきれいにしているわけだ。今は、翌週のお彼岸に向けて墓全体をきれいにしている最中ということだろうか。これもっと早い時間や午後になってからくると、あちこちでウィーン、ウィーンと草刈り機の音が忙しなく聞こえるのだろう。昼時に来たのは正解というところか。

 

 墓に一番近い通路沿いに車を止めて車椅子をおろし、妻を墓の前に連れていく。それからいつものように花を供えて線香をあげる。二軒分とはいえ手慣れたものだ。線香は少し降りたところに風除けのある線香用の備え付けの点火機があるので、そこで火をつけてからまた墓に戻る。

 

 墓の前で手を合わせ、これもまたいつものように近況を報告してから、妻と子どもが健康で幸福でいられるように、そして自分ももうしばらく健康でいられるよう見守って欲しいと祈る。父と祖母と兄が眠り、いずれ自分も入るだろう小さな芝生墓地の墓である。自分がどうにかなれば、はたして子どもはきちんと墓を守ってくれるかどうか。それは本当によくわからない。家を継ぐという点ではいずれ引き継いでもらうのかもしれないけど、けっして無理強いはできない。

 墓の管理料はたかがしれたものだろうけど、せいぜいその程度を引き継いでもらえれば、特に墓参りや手入れなどを期待してもしょうがないのではないかと思っている。それを思うと、自分の身体が自由なうちはきちんと墓参りをしてなどと思ってはいる。とはいえせいぜい年二回のお彼岸や盆暮れとかその程度でしかないのだけど。

 命日に墓参りというのはどうなんだろう。出来たらそれにこしたことはないのだろうが、田舎の公園墓地となるとなかなかすぐに来ることは難しい。父親が亡くなった後はしばらくは毎年のように来ていたように覚えているが、次第にお彼岸だけ、それすらも少しずつ遠ざかって、気がつけば一年ぶりとかそういうことが続いていたような気もする。まあ日々忙しくしていたし、生きてる者の生活が優先みたいなことだっただろうか。

 ここのところ比較的まめに墓参りしているのは、ひとつにはリタイアしたことだろうし、もう一つは自分も老いたということ。そういうことなんだろう。別に墓が、向こうにいる亡くなった人々が呼んでいるということでもないのだろう。でも年取って、死とかそういうものがより身近になってきているということもきっとあるに違いない。

 まあ一番の理由はというと、自分の家族というか、父、兄、祖母、みんな亡くなってしまい、彼らのことを覚えているのが自分だけということもあるのだろう。自分が多分、彼岸(むこう)にいくことになれば、彼らのことをよく覚えている者はいない、まあそういうことになる。

 

 五歳のときに離別し、それ以来一度も会ったことがない母親はというと、兄が死んだときに戸籍等をいろいろ調べると、実はその数年前まで生きていたなんてことも判った。とっくの昔に亡くなっているものと思っていたのだが、つい数年前となると、探して一度会っていても良かったかなどと思ったりもした。

 役所から取り寄せた書類で知ったことなので、どこに埋葬されているのかもしらない。身体が動くうちに一度きちんと調べて、墓参りでもした方がきっといいのだろうとは思うのだが、なんとなくというか、あまりその気にもならない。五歳の時に別れたということもあり、実は母の記憶というのがまったくない。だから正直のところ、情緒的には何の感慨もおきない。不人情かもしれないが、こればかりは致し方ない。

 

 墓参りに来るともろもろ考えることがある。それも墓参り、されど墓参り。まあそういうものだろう。死とか死者のこととかを、より身近に考える。墓はそういう場所だということだ。

 

 墓には小一時間いただろうか。最後にもう一度、二つの墓に手を合わせてから小旅行に向かった。