戦間期に生きて

 敗戦記念日だ。

 敗戦を終戦と言い替えるのは多分『1984』のニュースピークの換用だろう。

 欺瞞的言語操作。

 8月15日は敗戦記念日。個人的には配偶者の誕生日でもある。今回はなにもしない。たまたま彼女がダイエットモードなのでご馳走的なものもなにもない。光物プレゼントを所望されたけど、年金生活なので今回はパス。たしか2年前にバカみたいに高いブランドバッグを買ってあげたけど、そうそういつもという訳にはいかないだろう。

 

 78年目の敗戦記念日に何を思うか。

 う~む。

 自分は1956年生まれ。昭和31年生まれ。もはや戦後ではないとかなんとかそういう時期に生まれた。そして当然のごとく戦争を知らない。

戦争を知らない子どもたち」・・・・・・。

 昔、流行ったんだなこれが。

僕らの名前を覚えてほしい

戦争を知らない子どもたち

 北山修が書いた曲だけどこれは団塊の世代のための歌だ。1947年くらいに生まれた人たちだから、もう後期高齢者に首つっこむ世代。自分はその少し後の世代だ。

 でも、団塊世代の後を生きてきた自分も、そしてその後の世代も、その後の後の世代も、幸運なことに直接の戦争を知らないまま人生を送っている。

 歴史的には戦間期という言い方がある。

戦間期 - Wikipedia (閲覧:2023年8月15日)

 歴史的な用語としては、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間である。

 欧州ではその間にナチスドイツが生まれた。アメリカは直接的に戦場にならなかったので、ある種浮かれていた時代だ。ローリング・トウェンティーズとか言われていたね。フィッツジェラルドとかが頑張っていた頃だろうか。

 日本はというと、ドイツと同様せっせとファシズムの道を歩んでいた。大正から昭和に移る頃は、なんていうのだろう「漠然とした不安」みたいなことで作家が自死したなんてこともあった。そして昭和に入ると転がる石のように戦争への道へと突き進んだ。

 戦争がない時代、ある種浮かれ騒ぎしながら、じょじょに次の戦争への道へ転がっていく。それがある意味、戦間期という時代括りなのかもしれない。

 でもね、これだけは確実に、明確に、はっきりと言えるけれど、戦争がないというのはいいことだよ。

 

 戦間期といいつつも、けっして戦争がない訳ではない。戦争が終わった後、世界史的にはアメリカとソ連の間でずっと冷戦が続いていた。そして代理戦争よろしく、局地的には様々な戦闘、殺し合いが続いてきていた。アジア的にいえば、ベトナム戦争、それに続くカンボジアの動乱などなど。中東はある意味じゃ、ずっと戦争状態が継続している。そしてヨーロッパでは、いままさしくロシアとウクライナでそこそこ大規模な局地戦が継続中だ。

 まあ、大規模な世界戦争という意味だけでいえば、1945年以降はずっと小康状態。そういうことだ。

 そういう意味でいえば、小さきな諸々はあるかもしれない、諸問題はあるだろう。でも取り合えず大規模な世界戦争はない。少なくとも、自分の住んでいる日本に限定していえば、1945年以降、自国やその周辺での大規模な紛争はない。

 それは多分、とてもラッキーなことなんだとは思う。僥倖といっていいかもしれない。そう我々は戦争を知らない子どもたちどころか、戦争を知らない親になり、多分戦争を知らない祖父母になっている。なのでその子どもたちも、孫たちも、当然のごとく戦争を知らない子どもたち、孫たちである。

 東アジアの辺境地の日本は、とりあえず三世代にあたって「戦争を知らない」状態にある。戦間期はすでに80年近く続いている。

 

  世情的には少しきな臭いところもある。日本の防衛予算は膨張している。アメリカは東アジアの防衛においてはその多くを日本に肩代わりさせようとしている。ソ連崩壊後、世界政治のおいては一強であったアメリカに対峙するように、中国が超大国化している。アメリアと中国は冷戦時代のアメリカとソ連のように対峙するようになってきている。新しい冷戦の到来だろうか。

 多分、かっての米ソの対立とは異なるのは、アメリカと中国は互いに対立し牽制しあいながらも、経済的には依存しあっているところだろうか。かくも経済的には売ったり、買ったりを続いけているのに、万が一戦争状態になったら、どうするのよみたいなところだろうか。

 同じことは我が国日本についても同じである。あたかも仮想敵国のごとくに中国を敵視しその脅威を煽りつつも、中国は日本にとって最大の貿易国である、輸出も輸入も。最大のお得意様だし、円安日本にとって唯一の成長産業ともいうべき観光産業にとっては、中国からの観光客に爆買いしてもらわないと上向かない、そういうリアリズムがあるのである。

 内向き脅威を煽りつつも、とりあえず沢山観光客に来てもらって、沢山買い物してもらわないと経済上向かない、そういう最早先進国というより発展途上国マインドになっているのが日本国なのである。これはバブル期に他所の国に沢山買い物に出かけ、沢山不動産とか買い占めていた強くて浮かれる日本を知っているだけに、とても残念なことではある。もう日本は、強い円で他所の国に買いに行く国ではなく、とにかく安いのでいろいろ買いに来てくださいという国になってしまったということ。

 チープ・ジャパン。

 まあいいか。円が安かろうが、高かろうがいい。戦争がないということが重要だ。

 とりあえず自国が他国に攻められて民間人が沢山殺されることもなく、また自国の軍隊が他国に侵攻して他国民を殺すみたいなこともないまま80年近くが続いている。

 

 戦間期という歴史的用語は、狭義では第一次世界大戦から第二次世界大戦までの期間を指している。でもあえていえば、人間の歴史は、世界史は、つねに戦間期であったのではないかと、そんな気がしている。世界史は時代、地域によって、さまざまだから普遍性はないかもしれないけれど、だいたいにおいて戦争が節目になっている。人類史はすべからく戦間期ではないかと、まあ言えないこともないのではないか。

 まあそうだとしても、取り合えずせっかく80年近く、自国が戦禍にまみえない状況が続いているのである。歴史的必然性からすれば、次の戦争を絶対にないとは言えないとは思う。でも。できれば次の戦争を出来るだけ起こさない、遅らせる、それが今、この国に生きている自分たちに課せられた唯一の使命とか課題とか、そういうことではないかと思ったりもする。

 日本においては戦間期がすでに80年近く続いている。当面はこの戦間期を100年くらい続けるための細やかな努力を、この国に生きている自分たちは果たしていく必要があるのかもしれない。そのために具体的に何をするか・・・・・・、判らない。

 とりあえずきな臭いことには反対するとか、そういうことかもしれない。

 戦争を知らない子どもたちは、家庭をもち、子どもが出来、多分孫さえ普通にいる。そのすぐ後の自分たちの世代でも、まあ普通に子どもがいるし孫もいる。出来れば、この先もずっと、戦争を知らない子どもたちが生きる世界が続いて欲しいし、そのために少なからず声をあげていければと思ったりもする。

 我々は多分、戦間期に生きている。でもその戦間期を出来るだけ長くすることはけっして出来ない訳ではない。それは課せられた義務とか使命とか、そういうことじゃないかと思ったりもする。

 我々は戦間期を生きている。