『無子高齢化』を読む

 『無子高齢化』を読んだ。

 

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖

無子高齢化 出生数ゼロの恐怖

 

  読後の感想は一言でいえば、とんでもない事態が現出している。そしてそうした事態を招いた責任の一端が自分たちの世代にあるのではないかという思いがよぎる。現在の少子高齢化団塊ジュニア、ポスト団塊ジュニアの就職難に軌を一にするところがある。それはこの世代を雇用の調整弁にした、その前の世代、まさに自分らの世代かもしれないという思いがあるからだ。

 確かに生活に必死だった。ちょうど子育てと仕事がハードになる頃が重なった。自分の場合は、さらにカミさんが病気で倒れ、家事、育児、介護、仕事、その総てが一気に押し寄せてきた。日々のすべきことに追われていた。しかしそのことで社会性に欠けてはいなかったか、後の世代に対する責任意識が圧倒的に欠けていたように思う。まさに忸怩たる思いだ。

 本を読んで、かくも居ても立っても居られない思いになったのは、ひょっとして初めてのことかもしれない。

 そういう状況にまったく気づいていなかったのかどうか。いや、なんとなくおかしいということは思っていた。もう10年も前のことだろうか、職場で非正規の嘱託社員やパートを募集する。それまでは当然のごとく主婦層や定年した高齢者が多かった。そこに少しずつ30代、40代の男性が混じるようになってきた。しかも送られてきた履歴書を見ると高校を卒業して以来、一度も正社員でない者が何人も見受けられた。ずっと、派遣、パートの繰り返しなのである。正社員であった者も、様々な理由で会社を辞めた後、同様に派遣や非正規ばかりなのである。

 一緒に面接した同僚たちと、なんだか正社員でいるというだけで勝ち組みたいだねと話したことをよく覚えている。そうした非正規雇用に甘んじてきている人たちは当然のごとく単身者ばかりである。経済状態が安定していないので結婚もできない、当然子どもなど作れない。そういう層が世代として生まれていることに、定点として遭遇していながら、自分たちはただ「大変だな」ということで済ませてきてしまた。

 そしてそういう不安定な生活を強いられた世代が一様に少子、子どもを作れないできたツケが今巡ってきているのである。

 この本がいう少子どころか無子高齢化というのは、単なるセンセーショナルな扇動なのだろうか。著者は冒頭でわかりやすく解説する。

合計特殊出生率1.44で何が起こるか

 合計特殊出生率とは一人の女性が一生の間に平均して生む子どもの人数で、日本では2016年が1.44と発表され、社会に衝撃を与えた(2017年は1.43とさらに低くなっている)。

 一人の女性から1.44人だから人口減はないと思えるかもしれない。しかし子どもを産むには男女2人が必要なので、ようは2人から1.44人ということなのだ。著者はこれを男女100人ずつの社会でわかり易く説明する。すると200人が次の世代は144人、その次は104人に減少する。つまり三世代、孫の代で半減してしまうということなのだ。

 表にしてみるとこんな感じだろうか。

世代 合計
1 100 100 200
2 72 72 144
3 52 52 104

 そのまま人口1億、男女半々すると三世代で約5千万になってしまう。机上の話ではあるが空恐ろしい数字なのである。

 少子高齢化の果ての無子高齢化、それはどうして起きたのか。本書では戦後の人口政策を振り返りながら検証を進める。驚くことまでに戦後日本は人口抑制政策をとり、地方の農民層の次男、三男を中心とした移民政策を70年代初頭まで続けていた。そして第二次ベビーブームの到来の頃に起きたオイルショック成長の限界論から積極的な人口増への転換に向けてのかじ取りに失敗した。

 さらに人口減少を、出生率の低下に危機を抱き、女性の高学歴化、就業率の上昇などを前提にした保育や育児休業に制度に取り組んだフランスやスウェーデンといった欧州の施策とは逆の福祉政策が日本でとられていった。

 では、なぜ日本は何も手を打たなかったのだろうか。

 その答えは、1979年に大平内閣が打ち出した「日本型福祉社会」論を見ればわかるだろう。これは、家庭こそ福祉の基盤という考え方で、簡単に言えば、日本は専業主婦が育児や介護を無償で担うため、社会保障費が安くすみ、それが日本の経済成長を支えているという考え方だ。同じ年に自民党が出した研修叢書『日本型福祉社会』では、高福祉、高負担の北欧は愚行であり、高齢者の世話は子どもや家庭が責任を持ち、公的サービスの利用は例外に限る、という主張が示されている。なにせ「保育所を作れば、母親が子どもを預けて働きにいく「必要」が誘発される。ポストの数ほど保育所を作れば、国は破産する」(要約著者)とまで書かれているのだ。「専業主婦がすべてをやる」のであるから、子育ての社会化や子育て支援など必要がない、と考えられていたのである。

 しかも、1979年はエズラ・F・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出された年である。この本では、日本の成功の秘訣として、日本人の勤勉さとともに、終身雇用・年功序列賃金・企業丸抱え福利厚生制度などが挙げられていた。しかし、ここには書かれていなかったが、夫が人生の時間のすべてを会社に捧げるような働き方ができるのは、妻が家事や育児・介護の一切を担っていたからである。だが、これは、豊富な若年労働力のあることが前提の仕組みだった。P65~66

 この伝統的な家族観に裏打ちされた愚策的福祉観がすべての要因の元なのかもしれない。大平内閣が戦後ずっと続く保守党の長期政権、そう今も続く自民党政権であることを忘れてはいけない。彼らは自分たちのやってきた愚策に対する検証もなければ、一切の反省もないまま、今も政権の座にあり続けているのだ。

 さらにいえば、家事労働の一切は基本的に不払い労働である。かっての高度成長期は家事労働の不払い分を、企業が労働者に対して支払っていたのである。しかし経済状況が悪化してくれば、当然のごとく企業は家事労働分を上乗せした賃金など払わなくなる。

 そうなればそれまで不払い労働をしていた主婦は外へ出て金を稼ぐしか道はないのである。そして不払い労働たる家事、育児は夫婦で分担して行う。これは自明なのことなのだ。そのとき政治は、社会は、夫婦が共に外で働きに出るための環境作りを保証すべきだったのである。なのに伝統的価値観と低福祉社会を訴求する自民党政権はそれを徹底してサボタージュしてきた。それが今日の少子高齢化、その先にある無子高齢化を招き寄せようとしているのだ。

 多分、当時の政策担当した政治家、官僚はこんなことを言うだろう。「これは想定外のことだ」と。もちろんほとんどがすでに鬼籍に入ってしまっているのかもしれないが。

 その後、2000年前後からの経済の変動は大きく社会の構造を変えてしまった。今や終身雇用は失われてしまい、賃金は大幅に低下し、夫は妻の分までの稼ぎを永遠に失ってしまったともいえる。

 この本には今の少子化の危機に対する特効薬となるような具体的な策は提言されていない。そんなものがあればとっくにということなのかもしれない。しかし著者は警鐘とともに最後にこんな言葉を綴っている。

本書は何としてでも、平成の次の時代は次世代に安心して渡せる社会になってほしい、子どもたちが自分たちの未来に希望をもって生きていける社会になってほしい、という願いを込めて書いたものである。 

 本書は多くの人に読まれるべきだと思う。そして今、人口政策に具体的な方策をとらないと、この国はとんでもないことになってしまうということを総ての人がきちんと認識すべきかとも思う。