練馬区立美術館「本と絵画の800年~吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション」 (3月17日)

 まだ働いている友人がウィークデイに休みがとれたという。どこかへということで、比較的近場の練馬区立美術館へ行くことにする。

本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション | 展覧会 | 練馬区立美術館

(閲覧:2023年3月20日

 建材メーカー吉野石膏が西洋絵画の膨大なコレクションを持つことは以前から知っていた。たしか2019年には三菱一号館美術館で開催された「印象派からその先へー世界に誇る吉野石工コレクション」を観ている。その時にも感想を書いたような気がするが、それ以前からあちこちの美術館で開かれる印象派展などで、吉野石膏所蔵というキャプションのついた名画を幾つも見ていたので、そのコレクションにはいちおう知ってはいた。

三菱一号館美術館「印象派からその先へー世界に誇る吉野石工コレクション」 - トムジィの日常雑記

 その吉野石膏が絵画コレクション以外にも中世写本や、近代のプライベートプレスの工芸品とでもいうべき美しい製本の書籍も蒐集していること、また西洋絵画だけではなく日本画のコレクションを持っていること、それらを中心とした企画展ということで、ちょっと興味があった。

 友人とはどうせ酒を飲むことになるので、その前に軽く文化的お散歩みたいなことで提案したところ、昼過ぎに会おうということになった。友人もけっして絵とか嫌いではないほうである。

 中世写本では、日々の祈りの文言や詩編を修正して内容に合わせた挿絵を付記した時祷書が中心で、さらにその時祷書の頁を切り離して1枚のリーフにした霊葉などがある。今回はどちらかというと、霊葉が中心の展示のようだった。

時祷書 - Wikipedia (閲覧:2023年3月20日

 多分、時祷書の複製写本として岩波から出ていたファクシミリ版あたりの展示があるかと思っていたら、案の定あったのだが、それは『ホルソ・デステの聖書』で、東大の美術史学研究室所蔵のものだった。密かに『ベリー公のいとも美しき時祷書』が出るかと思ったりしたのだが。でもあのファクシミリ本、吉野石膏も持っているのではないかと思ったりもしている。もし所蔵してないとしたら、岩波か丸善もしくは紀伊國屋あたりの営業努力がちと足りなかったかとも。

 仕事がら以前、『ボルソ・デステ』も『ベリー公~』も一度はファクシミリ版を現物を見ているように思うのだが、いかんせんその頃は美術への興味がほとんどなかった。残念なことだ。

 このコーナーでは他に当時の写字生たちが写本を手書きで書いていったときの机を復元したものなども展示してあった、けっこう興味深かった。

 この傾斜した部分に羊皮紙を置いて一枚一枚写本していったのだとか。ペンは主に白鳥の羽で、ちょっと書いてはすぐにペン先が丸まってしまうので、すぐにナイフで削る。それを一日中ずっと繰り返すのである。写字生という修道僧の日々はかなりハードだったのだろう。昼間でも暗い写字室での作業、目も悪くなるだろう。

 そんなこと思っているとふいにあのウンベルト・エーコーの『薔薇の名前』のことを思い出した。あれはまさに修道院での写本制作が舞台だった。写本する元になる本のページに毒を塗って、写字する修道僧がそれを舐めて毒殺される。その殺人事件を推理して解き明かすのがその修道院に立ち寄った著名な修道僧。そんな話だったか。

 通常、写本されるのは聖書やキリスト教の教義書だが、そのとき写されていたのは禁じられたはずの異教の書にして本当にあったのかどうかが不明のアリストテレスの『詩学』の第二部だったか。

 友人に小声で「これって『薔薇の名前』だよな」と話しかけると、「それそれ」と返ってきてお互いひそひそと笑いあった。

 近代イギリスのプライベート・プレスについては、去年、群馬県立近代美術館で「理想の書」という企画展を観ていて、ほぼそこで仕入れた付け焼刃的な知識だけだったが、ケルムスコット・プレスやトーマス・ビューイックといった名前も散見していたようだ。

 これは初めて知ったことだが、カミーユピサロの息子であるリュシアン・ピサロがイギリスでエラニー・プレスというプライヴェート・プレスを設立運営していたという。彼が父親と同じように絵を描き、主に点描画などを描いていたことは、何度か実作も観たこともあり知ってはいたが、イギリスで出版業をしていたというのは初耳だった。

リュシアン・ピサロ - Wikipedia (閲覧:2023年3月20日

 リュシアンは1870年にイギリスに一時期滞在し、その後1890年にロンドンに渡り、1894年にエラニー・プレスを設立し1914年まで出版活動を行った。おおよそ20年出版業を担ったということだ。その後は1916年にイギリスの市民権を得て挿絵画家、風景画家として活躍し、1944年に没している。フランスに帰国することはなかったようだ。

 1870年にイギリスに滞在したのはおそらく普仏戦争から逃れるためだった。その後、イギリスに50年余りを過ごしたのはどういう事情なのだろう。もちろん当地で結婚し家庭を持ったということもあるのだが。

 以前、父親のカミーユピサロや新印象派の名付け親ともなった美術批評家フェリックス・フェネオン、ポール・シニャックなどは熱心なアナキストだったというのを何かで読んだ気がする。ひょっとしたらリュシアンも同じ思想の持主で、イギリスへは弾圧を逃れた亡命みたいなことではなかったのではと。まあこれは何の根拠もない妄想の類だけれど。

 

 近代の出版、書物の関連で、近代以降の西洋画の名品も多く展示してある。それらは前述した三菱一号館などでお馴染みの作品が中心だ。

《暖をとる農婦》(カミーユピサロ) 1883年 73.2✕60.0

静物、白い花瓶のバラ》 (フィンセント・ファン・ゴッホ) 1886年 37.0✕25.5

《緑と白のストライプのブラウスを着た読書する若い女》 (アンリ・マティス
 1924年 55.0.×38.5

 

《帽子をかぶった女》 (パブロ・ピカソ) 1939年 65.0✕50.0

《坐る子供》(キース・ヴァン・ドンゲン) 1925年 100.0✕80.0

 西洋画はすべて図録から。下図の川端龍子はネットで拾った。

《白川女》 (川端龍子) 1951年 112.5✕84.1

 「白川女」とは北白川に住み、四季の草花を頭上に載せて京都市内を売り歩いた女たちだ。同じような行商の女ということでは、多く日本画で主題となったのは、頭上に薪を載せて行商した「大原女」の方が有名だ。この絵を観たときも一瞬「大原女」と思ったのだが、調べると草花を売り歩くのは「白川女」ということだった。

大原女 - Wikipedia (閲覧:2023年3月20日

白川女 | 祇園商店街振興組合オフィシャルサイト (閲覧:2023年3月20日

 

 美術館は3時過ぎに出た。その後は中村橋から練馬まで歩いて、開いている安い居酒屋でしばし美術談義に花を咲かせた。