東近美ーMOMATコレクション (5月26日)

 失意の青嘉堂の後、美術館のハシゴをしようと思う。選択肢は八重洲口まで歩いてのアーティゾン美術館、東京駅の東京ステーションギャラリー、竹橋の東近美。本来であれば三菱一号館も候補なのだけど、ここは確か長期休館中。アーティゾンは日時指定予約なので当日だと入れない可能性あるということで候補から落ちる(後で調べたら、6月3日からの新しい展覧会のため休館中とか)。

 そうなると安定の東近美か、後期展示が始まっている「大阪の日本画」の東京ステーションギャラリーか。しばし考えた結果東近美にする。多少寝不足だったので4階の眺めの良い部屋で少し仮眠でもしようかと思ったり。

 ということで丸の内からまたお堀端を歩いて竹橋へ。途中、毎日新聞の地下でいつも同じようにロースかつ定食を食べる。

 

所蔵作品展 MOMATコレクション (2023.5.23–9.10) - 東京国立近代美術館

(閲覧:2023年5月28日)

 MOMATコレクション は5月23日から新しい展示が始まったばかりで、大幅な展示替えがされている。途中7月17日までが前期展示、それ以降9月10日までが後期展示である。

 今回は4階の2室から4室で「関東大震災から100年 社会のひずみ」、3階の6室では「1920-1940年代の絵画―具象的な絵画を中心に」ということで、梅原龍三郎安井曾太郎らの定番品が展示されている。さらに3階10室の日本画の部屋で女流画家の作品ばかりを展示してあって、これがけっこう見どころ満載。

中村不折と中沢弘光

《たそがれ》 中村不折 1916年

 

《かきつばた》 中沢弘光 1918年
梅原龍三郎安井曾太郎 

3階6室、1920-40年代の具象絵画は圧巻。

 やはり主役はこの2点かな。

《北京秋天》 梅原龍三郎 1942年

奥入瀬の渓流》 安井曾太郎 1933年
関東大震災と津田清楓

 「関東大震災から100年社会のひずみ」では津田清楓の作品が2点展示してある。

《婦人と金絲雀鳥》 津田清楓 1920年

 何度か観ている作品だが、悲しいかな無学のためこの「金糸雀」が読めない。一応調べたりするのだがすぐに忘れる。英文表記の「Lady and Canaries」で「カナリア」と気がつく。出来ればルビをふって欲しいと思ったり。

 

出雲崎の女》 津田清楓 1923年

 この時期の津田清楓の作品が展示してあるのは、寺田寅彦関東大震災について書かれたエッセイにこの作品のことが記載されているからだ。

九月一日 (土曜)
 朝はしけ模様で時々暴雨が襲って来た。非常な強度で降っていると思うと、まるで断ち切ったようにぱたりと止む、そうかと思うとまた急に降り出す実に珍しい断続的な降り方であった。雑誌『文化生活』への原稿「石油ランプ」を書き上げた。雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠うらを下から木槌きづちで急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向あおむいて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。 寺田寅彦『震災日記』より

寺田寅彦 震災日記より (閲覧:2023年5月28日)

 関東大震災に遭遇したその時、寺田寅彦はT君(津田清楓)と歓談中だった。そしてそこで話をしていたのが、この作品『I埼の女』=『出雲崎の女』だという。

 この『出雲崎の女』は新潟県出雲崎で泊まっていた旅館の娘に惹かれた津田清楓が、モデルになってくれるように頼みこんで描いた作品。かなり大胆な裸婦像になったこともあり、その娘の夫が展示の撤回を要求されているまさにその時に震災に遭遇したということだ。

 津田清楓は夏目漱石のお気に入りの画家であり、装丁も手掛けている。漱石に絵の手ほどきをしたという逸話もあるようで、漱石門下の寺田寅彦とは漱石つながりで交流があったのだろう。なんでも小宮豊隆漱石に面白い画家がいると紹介したという。漱石が津田清楓を気に入っていたことは、小宮とともに漱石門下の筆頭格である阿部次郎の著作にもこんなエピソードが書かれている。

「津田は傍に置いて昼寝することもできるし、何時間も黙って相対してゐても少しも気張らないからいい」 阿部次郎「夏目先生の談話」より

夏目漱石に愛された画家の話 (津田青楓展) - 雨がくる 虹が立つ

(閲覧:2023年5月28日)

関東大震災と社会のひずみ

 同じコーナーにはプロレタリアート的作品が数点展示してある。

《メトロ工事》 福沢一郎 1929年

《同士山忠の思い出》 望月晴朗 1931年
10室女性画家特集

《かえり路》 池田蕉園 1915年

 池田蕉園の新収蔵品。発表当時は六曲一隻屏風だったが、左の二扇が失われ四曲一隻屏風となっている。失われた二扇にはイケメンが描かれていて、中央の二人の少女は見とれているという構図なのだとか。

 

《花》 梶原緋佐子 1951年

《小女》 小倉遊亀 1956年

《夕》 三谷十糸子 1934年

《復活の宴》 内田あぐり 1992年

《ポーズ21》 片岡球子 2003年