『日本の中のマネ-出会い、120年のイメージ-』

 

 練馬区立美術館「日本の中のマネ」展の図録がなかなかに面白く読み応えがある。平凡社から市販された一般書籍のようで、区立美術館レベルの企画展図録としては異例かもしれない。国立美術館などで行われる大規模な企画展の図録ではなく、公立美術館の展覧会図録が市販されるケースは、自分が持っているものだと府中市美術館『動物の絵 日本とヨーロッパ』’(講談社)や埼玉県立近代美術館『旅と芸術 発見・驚異・夢想』(平凡社)なんかがある。美術館による一定の買上げなどの条件があるのかどうかは不明だが、美術館図録の市販化は出版社にもけっこうリスクもあるだろうから、あまりないのではと思っている。

 『日本の中のマネ-出会い、120年のイメージ-』は近代美術の父エドゥアール・マネの日本での受容をテーマとしている。特に冒頭にある三本の小論満開の桜や 色づく 山の紅葉を
この先 いったい何度 見ることになるだろう、「エドゥアール・マネの絵画—闘争と歓楽のはざま」(三浦篤)、「マネと印象派」(島田紀夫)、「エミール・ゾラ、マネ論からのマネ受容」(小野寛子)はボリューミーかつ内容の濃い論説で、これを読むだけで得難い読書体験を得ることができる。

 参考になった部分が多々あり、それらを引用してきた感想などを少し綴ってみる。

エドゥアール・マネの絵画—闘争と歓楽のはざま」(三浦篤

 三浦篤は東大教授で西洋近代美術史が専門。

19世紀フランス絵画史に即していえば、マネは歴史画を至上とするアカデミスムに反発した画家で、クールベのレアリスム絵画の後を受けて同時代の卑近な現実を描き、印象派の先達として新しい絵画を導き出した存在と捉えられる。主題としては、ボードレール流の「現代生活の画家」として主に近代都市パリの諸情景や人物を描き、様式としては、明度の高い色彩と筆触の効果を生かしつつ平面性を志向したと見なされている。特に英米圏では、主題よりも造形の自律性に重きをおくモダニズム絵画の創始者と見なされる傾向が強い。

 マネはクールベバルビゾン派による写実主義自然主義から印象派に移行する時期に媒となった画家とされるが、日本におけるマネ研究の第一人者である三浦篤は、英米圏でマネがモダニズム絵画の創始者として位置付けられていることに論及している。それはそのままマネを近代美術の父と称する見方へと収斂されていくようである。

他方、巨視的に捉えたとき、マネが西洋絵画史にもたらした決定的な転回とは何か。その絵画根本的な革新性はどういうものなのか。その大きな鍵はマネ作品におけるイメージの操作性にあると筆者は考えており、拙著『エドワール・マネ 西洋絵画史の革命』ではその点を強調した。

既存の画像を自由に引用し、組み合わせながら「現実」を表象するという、現代アートまで続くような大胆なイメージ再創造の手法に着目し、西洋絵画史の大きな変革点を真似に見たのである。

 マネ作品のイメージの操作性、既存の画像を自由に引用し組み合わせるとはどういうことか。おそらくマネが古典作品のモティーフを現代社会の風俗を描くことに換用あるいは応用したことを指しているのだろうか。

 端的にいえば歴史画、物語画として描かれた女神の裸婦像の構図、モティーフを使って同時代に生きる生身の女性を写実的に描いた点や神話的な設定での水浴をそのまま市民生活の余暇として描いた点などのことかもしれない。

 もっとも生身の女性を描いた裸婦像はすでにクールベなどにも作例があり、なぜマネだけがスキャンダルな形で糾弾されたのかどうか。

19世紀フランス絵画史を社会制度論的に分析したホワイト夫妻に倣えば、「アカデミック・システム」から「画商・批評家システム」への移行期にマネは位置している。すなわち、国立美術学校、ローマ賞コンクール、サロン(官展)、国家の購入や注文、美術アカデミーといった美術の諸制度が権威ある存在として君臨し、画家たちがデッサンを重視する技術を身につけ、優れた歴史画(物語画)を制作することを至上の目的とする時代が長く続いていた。ところが、19世紀になると、美術の価値の拠り所に変化が兆し始める。古典的な伝統に基づく理念と技術から個人の主観性と独自の感覚へ、神話や聖書などの物語的な主題から自らが生きる時代の日常の現実へ、理性的なデッサンから感覚的な色彩や筆触へと画家たちの関心が広がり、価値観が相対化されていく。19世紀半ばになると、クールベ、マネ、印象派のように、個人の自由な感覚とと技法で同時代の現実(人物であれ風景であれ)を積極的に表す絵画が登場するのである。

マネがパリの上層中産階級の出身で、司法官僚を父とするブルジョワの子弟であったという事実は無視し得ない。というのも、19世紀後半のフランスにおいて「アカデミック・システム」の中核を担う画家たち、すなわち美術アカデミ会員、国立美術学校教授といった要職に就く画家たちは、その大部分が地方の職人階級の出身であったからだ。モンペリエ生まれのアレクサンドル・カバネルは建具職人の息子、ウズル生まれのジャン=レオン・ジェロームは貴金属宝石職人の息子、ラ・ロシェル出身のポール・ボードリーは木靴製造工の息子といった具合である。

当時の美術エリートたちはもともと社会の下層にいた者たちが、周縁的と見なされている美術の世界で階級的に上昇を遂げた姿だったのである。

マネは既存の美術エリートになる気などさらさらなかった。歴史画中心の規範や技術を尊重するのではなく、自らの感覚で同時代の身近な人物や情景を自由に描き表すことを望んだ。アカデミスムの承認を求めることなく、固着したルールを無視し、旧弊な美術界から逸脱し、新しいレアリスム絵画を模索しようとしたのである。マネにはそうした絵画的冒険を行うことを可能にするだけの経済的な基盤があり、生活のためにどうしても絵を売る必要はなかった

 マネだけがセンセーショナルに、スキャンダラスに叩かれた理由はここにあるのかもしれない。サロンで活躍するアカデミスムの巨匠たちは、職人階級など下層の出自のものが多く、それに対して裕福なブルジョワ司法官僚の子弟であるマネが、アカデミスムの歴史画(物語画)を最重要視するルール(コード)を逸脱し、歴史画(物語画)の題材として用いられる裸婦を風俗画の中で展開していったことが過剰な反発を受けたということなのだろう。

 絵を描くことを生業とするとき、アカデミスムのコードに従って制作しなれば、その世界では受け容れられず、市場価値もない。つまりは絵画制作で食っていくためには、既存のルールに従わなければならない。しかし、ブルジョワ階級の子弟として生活が安定したマネにとっては、絵が売れなくてもさして困ることがなく、<親の金で>制作を続けていくことが可能なのである。

 世間、美術アカデミーからの反発は、偉そうなブルジョワ放蕩息子への悪い感情があったのかもしれない。美術の世界でのヒエラルキーの上部にあるものにとって、社会的ヒエラルキーで上にあるブルジョワ高級官僚の子弟であるマネという存在は、やっかいな存在このうえなかったのかもしれない。

当時の美術エリートと階級的エリートとの間にはずれがあり、マネは美術エリート目指さない階級的エリートであったからこそ、絵画の斬新な変革を進めることができたことになる。言うならば、描く自由を行使できるだけの生活を送れるブルジョワの画家であると同時に、成功を求めつつも信念と美意識を曲げない非妥協的な画家が生み出した絵画だったのである。

オランピア》のスキャンダルで四面楚歌となったマネを敢然と擁護した美術批評家は、《笛を吹く少年》がサロンで落選したことに憤慨したゾラであり、レアリスム以後の新たな芸術を求める点でマネと方向性を同じくし、共和主義を信奉する点でも一致していた。画家と文学者の共闘は1967年の万国博覧会に出品できないマネが開いた同年の個展を頂点とし、マネ論を執筆してくれたゾラへの画家の感謝の証しは、ジャポニスムやメ・イメージが性が豊かな《エミール・ゾラの肖像》に結実した。

 美術界とその周辺から糾弾されるマネを支援したのは、同じブルジョワ出自のエミール・ゾラであり、のちに美術大臣となる友人のアントナン・プルーストらであった。そういう意味では、マネは当時としてはスキャンダルな裸婦などを描いていても、出自のブルジョワ社会から放逐されることなく、逆にその出自によってフォローを受けていたのではないか。

 万国博覧会に出品できないため、クールベに倣って博覧会会場の近くで個展会場を開いたマネだが、さほど成功してはいないという。マネは当時クールベほど売れっ子の画家ではなかったはずbなので、その資金はどこにあったかといえば、おそらく父親の遺産が原資だったのではないかと思ったりもする。

 既存の美術アカデミスムに反発する反逆児マネのもとには若き画家たちが集まり、さながら後の印象派の主導者的な位置づけをされることもある。しかし一方で絵画道楽に明け暮れるブルジョワ子弟の放蕩息子といった部分も実はあったのではないかと思ったりもする。

「マネと印象派」(島田紀夫)

 島田紀夫は実践女子大名誉教授、ブリジストン美術館の学芸課長、館長などを歴任した西洋近代美術史が専門。

1874年の最初のグループ展の直後、モネはマネに斡旋してもらったアルジャントゥイユの貸家に落ち着く。セーヌ河畔のこの町の向かいのジュヌヴィリエにマネ家の屋敷がありマネはそこからモネのところをしばしば訪れた。

 裕福なブルジョワジーの子弟であるマネは、彼のもとに集った若い画家たちを技術面だけでなく金銭面でもサポートしていたのかもしれない。マネは自分の屋敷の近くで住居を斡旋して、モネの戸外での絵画制作をサポートしていたのかもしれない。

この時期(1872~1874年)にアルジャントゥイユで制作した彼ら(モネ、ルノワールシスレー)の作品は、ある程度統一したひとつの様式を実現している。パレットの上で混合しない絵具の小さな筆触で、自然の一瞬の姿をカンヴァスに定着しているのである。この手法によって、光の効果・大気の振動・天候の変化・季節の推移などが画面に定着された。

この時期に制作されたマネのセーヌ川の情景はモネやルノワールの作風に接近しているように見える。しかし、これはマネにとって一時的な転向にすぎなかったようだ。印象派の主要画家たちが専念したジャンルは風景画である。しかし、マネが主力をそそいだジャンルは人物を主体とした都市風俗画だった。

 マネはモネやルノワールらと近接した地域で制作を行い、積極的に若い印象派の画家たちの技法を吸収していったようだ。ただしその後のマネの画風は人物画や都市風俗画であり、印象派の技法は一時的に試みただけだったようだ。しかし晩年、病気療養のため郊外に移り住んだ後のマネは、印象派風の作品を多数描いている。

この年(1866)のサロンは画家のアルファベット順に作品が並べられていたから、マネとモネは同じ部屋に展示されていた。5月1日の開会日にこの部屋に入ったマネは、セーヌ河口のオンフルールの海を描いたモネの作品をマネのものと勘違いした人たちから祝福を受けて驚いた。名前を見れば、自分と一字違いのモネではないか。マネは最初は悪い冗談だと感じたが、この作者は自分の悪評を利用して有名になろうとする悪い奴だと思い怒りを覚えた。

 マネとモネは良好な関係を維持しており、マネがモネの住居の斡旋をしたり、またマネの死後はマネ作品の国家買上げのためにモネが尽力を果たしている。しかしその出会いの最初は、上記のようにマネにとっては一字違いモネに対してはあまり良い印象を持っていなかったようだ。

ドガは第5回(1880年)と第6回(1881年)のグループ展に自分の仲間たちの参加を強く主張した。その反発として、第7回グループ展(1882年)はドガ派を排除して開かれた。その結果、ドガセザンヌを除く第1回グループ展の主要メンバー(モネ、ルノワールピサロシスレーベルト・モリゾ)が再び一堂に会したことになる。

1886年に開かれた最後のグループ展は、点描技法を採用するスーラやシニャックを擁護するピサロと、点描技法に対して不信感をもつモネやルノワールを支持するウジェーヌ・マネ(画家エドゥアール・マネの弟)とが激しく対立した。この様子は、息子リュシアン宛てのピサロの手紙からうかがうことができる。—「昨日私はスーラとシニャックについてマネ氏(ウジェーヌ・マネ)と激しいけんかをした。シニャックはギヨマン(アカデミー・シュイス以来のピサロの友人)ととTもに、その場にいた。私が彼(ウジェーヌ・マネ)をやりこめ、かつ毅然としていたことは、信じてもいいです。これはルノワールの気に入らなかっただろう」

第8回グループ展(1886年)で最も評判になった作品はスーラの《グランド=ジャット島の日曜日の午後》(シカゴ美術研究所)である。スーラや彼に感化されたシニャックの点描技法に不信感をしめしたモネやルノワールはグループ展に不参加を表明した。1885年にスーラやシニャックに出会っていたピサロは彼らを「科学的印象主義者」と呼び、昔の仲間たちを「ロマン主義印象主義者」と名付けた。第8回グループ展では、ピサロと息子リュシアン・ピサロの点描技法による作品は、スーラやシニャックの作品とともに別の部屋に展示された。

 印象派展への参加状況をみると、このグループが一枚岩ではなかったことは確かだ。また絵の売れ始めていて、絵の発表場所が印象派グループ展でもサロンでもなく、画商の経営する画廊中心になりつつあったモネやルノワールとそれ以外ではグループ展への参加を巡って温度差があったようだ。

 また屋外制作を行うモネ、ピサロシスレーらと屋内制作中心のドガらの考えの違い、さらに最後となった8回グループ展での点描派スーラ、シニャックの参加については相当な軋轢が起きたことがわかる。

ピサロがモネから借金してエラニーの借家を書いとるのは1892年である。その直後からピサロはパリやノルマンディー地方の都市風景(ルーアン、ディエップ、ルアーヴル)を描き始め、エラニーにはときどき戻るだけになった。1ウ895年2月24日にパリからロンドンにいる息子リュシアンに宛てた手紙でピサロは次のように書いている。
「こうした無理解の結果、私の作品は貧しくはかないものなのか、才能のかけらもないものなのか、と自ら疑い始めてしまう。・・・・・・モネは非常に高い価格で作品を売っていないか。ルノワールドガも。シスレーと同じように、私は印象派の中で後衛にとどまっている。」

 絵が評価され売れているマネ、ルノワールに比べて、存命中は絵の評価が低かったピサロシスレーピサロの息子への手紙には成功した者への複雑な気持ちが吐露されている。困窮状態でガンを罹患していたシスレーは、死ぬ前にモネに子どもたちの後事を託している。1899年1月にシスレーが亡くなり、1903年年11月にピサロが亡くなっている。いずれの葬儀にもモネ、ルノワールは参列している。絵画の技法その他芸術面で様々な意見の食い違いはあっても、グループ内での結束、交流が崩れることはなかったとういことか。

 モネの他の画家への義理堅い側面は様々なエピソードが残っている。

この展覧会(フランス美術100年展)終了後、マネ夫人がこの作品(《オランピア》)をアメリカ人に売り渡そうとしている、という噂が流れた。たしかに彼女は金銭的に困窮していた。そこでモネは、寄附を募り資金を集めて彼女からこの作品を購入し、国家に寄贈しようと考えた。

マネ夫人の手許に19,450フランが届くのは1891年3月18日だった。それから16年後の1907年2月、マネやモネの友人で時の首相だったジョルジュ・クレマンソーの命令により《オランピア》はルーヴル美術館に入った。

 マネの死後、家族の生活は困窮した。そして代表作でもある《オランピア》はアメリカに流出する瀬戸際にあった。モネはマネの代表作の国外流出を阻止し、国家買上げとルーヴルでの収蔵のために奔走し、結果としてマネの夫人の経済的窮乏を救う。マネの人柄がよく現れるエピソードといえる。

 それにしてもブルジョワ高級官僚の子弟として、父の財産を潤沢に受け継いだはずのマネの家族が経済的に困窮するとは。マネは自身一代で身上を食いつぶしてしまったのだろうか。そしてスキャンダル作品として様々な批判を受けた《オランピア》は、20世紀になってルーヴルに収蔵された。

19世紀後半から20世紀前半にかけての「近代美術」を、造形作品の内容よりは形式(フォーム)の側面から整理しようとする近代美術史観は(フォーマリズム)と呼ばれる。1970年代から始まる「見直し」(リヴィジョニズム)はこのフォーマリズムに対する反省にたち、作品のもつ意味や内容にも注目するようになった。

こうした見直しはモネや印象派の画家たちを対象として始まったのではなく、印象派の直接的な先駆者であるマネと直接的な後継者であるセザンヌに対する再検討から始まった。

印象派画家は「風景ではなく、風景から生み出される感覚を描いた」というカスタニャリの第1回グループ展の感想は、印象派画家は「何を描いたかではなく、いかに描いたか」が重要であるという固定観念に収斂していった。私たちが印象派作品を見るときにややもすれば陥りがちな一種の偏見である。

現在ニューヨーク大学で教鞭を執るジェームズ・ルービンが推奨するのは、印象派絵画に対して、「シーイング(ただ見ること)」ではなく「ルッキング(意識的に見ること)」の方法で接することである。

エミール・ゾラ、マネ論からのマネ受容」 (小野寛子)

そもそもマネが日本にもたらされた経緯そのものが、独特であったとは考えられないだろうか。それはマネに関するあらゆる紹介が、自然主義文学の始祖である小説家エミール・ゾラ(1840-1902)のマネ批評に基づく見解であり、画家マネの純粋なる紹介ではないためだ。恐らくマネ受容の始まりが、美術批評という舞台から明治・大正の批評家たちによる新しい芸術観の発見や、自らの芸術理念の表明と一体であったからだろう。

日本でエドゥアール・マネの名を初めて誌上で言及したのは、軍医でありながら小説家、批評家、翻訳家として近代日本を牽引した森鴎外で間違いないだろう。それは1889(明治22)年に創刊された文芸雑誌『柵(しがらみ)草子』第28号(1892(明治25)年1月25日)に掲載された「エミル、ゾラが没理想」に確認できる。

「没理想論争」のプロセスで初めてマネの紹介がなされたように、レアリスム、自然主義という芸術思潮を巡る論争や批評のなかでマネ受容は進んでいった。それは純粋なるマネ受容とは言い難いが、これがわが国におけるマネ受容の始まりである。ただ、森にとってマネは印象派の首領に過ぎず、それ以上この画家について踏み込むことはなかった。

反自然主義にある森のマネに対する認識は印象派のリーダーに留まったが、印象派に特別な思い入れのあった木下(杢太郎)にとってマネは、アカデミックな旧来の芸術規範と折り合いをつけた新しい芸術潮流の重要な牽引役であった。

彼ら(森鴎外、木下杢太郎)に共通するゾラのマネ擁護論からのマネ解釈は、マネが印象派を導いた自然主義を代表する画家として認知されることにおいては有効であっただろう。しかしながら、その一方でマネの作品は分析されることなく、それらが本来もつ古典作品からの借用と同時代性が共存するハイブリッドな構成や社会風俗の反映などのレアリスム的意味内容は解されず、ゾラのフィルターを通した造形的側面への理解のみが進んだことで、受容されるマネ像に一定の偏りが生じたことはいはめない。

続いて、マネから着想を得た作品といえば、弟妹のスナップ写真のような微笑ましい情景を描いた石井柏亭の《草上の小憩》が代表的である。本作はマネの《草上の昼食》を源泉とし、木立のある草原や登場人物が男女4人であることなどの表面的な要素に類似性がみられるものの、本質的には異質といえる。それは、マネ作品を源泉としながらも採用したものが表面的要素に留まっているためではないだろうか。