都内で会議2本こなして6時くらいに業務強制終了。飲みの誘いも振り切って上野に出て東京都美術館に直行。
このマネの「フォリー=ベルジェールのバー」が目玉なんだけど、それ以外にも珠玉といっていいような印象派の作品が目白押し。印象派好きの自分としてはストライクゾーンど真ん中みたいな企画展。
イメージ的には数年前に六本木の新国立でやったビュールレ・コレクションや今年文化村でやってたバーレル・コレクションと似た雰囲気だったか。
いきなり冒頭からモネの作品で始まり、印象派中心ともいうべきピサロやシスレー、さらにコートールドが積極的に収集したというセザンヌの作品群が続く。そしてドガ、ルノワール、さらにゴーギャンとスーラ。そして一番最後にモディリアニの裸婦でしめるという展示。
着いたのが6時半くらいで閉館8時だったので、実質1時間ちょっとしか閲覧できなかったのだけど、もう時間が惜しくてたまらないような思いにかられた。この企画展は暇があればもう一度は来てみたいと思う。
気に入った絵をいくつか。
この斜めから中央にぶった切るように木を描いたのは、明らかに浮世絵の構図を意識している。こういう構図はピサロやゴッホも挑戦している。確かこの絵、西洋美術館の「北斎とジャポニスム展」で観た記憶があったので、図録で確認してみると同じ構図、タイトルで愛媛県美術館収蔵とのこと。まあモネは同じ構図の絵を何枚も描いているので、そういう一枚といえる。
コートルードの方は明るい青みが強く太陽の光に輝いたような印象がある。一方、愛媛県美術館のものはややくすんだ感じで、時間的にはだいぶ太陽が陰ってきたような感じだろうか。モネにはこういう時間の経過による景色の移ろいみたいなものを捉え、色調が変わる作品が多い。
これも見事な作品だ。画面の手前、木に囲まれているのがセーヌ川の支流。画面中央に一筋の青で描かれているのがセーヌ川の本流と図録の解説にある。支流の流れが細くみえるのは、木々が水面に映っているからである。
しかしこの絵はモネにしてはおそろしく計算されたような見事な構図の意匠を感じる。というかモネの絵というと、光に移ろう一瞬を描くみたいな、まさに印象がメインのように感じられ、どうも構図のような部分は重要視されていないような気がするのだけど。実は構図にもかなり諸々配慮しているのだろうと、そんな気もしないでもない。
考えてみれば、モネの絵には浮世絵の影響は随所に感じられるし、それは概ね構図の部分で多く浮世絵からの換用がある。しかしここまで凝った構図の作品は自分は今まであまり観ていないような気もする。モネもまた奥が深い。
この絵の色使いはもう見事としかいいようがない。この作品はモネが1881年に着手したが完成をみることなく、それから40年以上、モネはこの作品を手元に置き、ときどき手を加えていたと図録にはある。
モネは80歳になった頃、この作品に若干の手を加え自らのサインを加えてから売却したという。それを1923年にコートルードがモネの最初の購入作品としたという。この珠玉の作品を最初に購入したところにコートルードの類まれな審美眼を思わざるを得ない。本当に素晴らしい作品だ。
時代的には松方幸次郎がヨーロッパで美術品を集めていた頃とシンクロする頃だ。この作品を松方が購入していてくれたら、今頃西洋美術館の常設展モネコーナーの一角に飾られていたかもしれないなどと、ちょっとした夢想をしてしまいたくなる作品だ。
このサント=ヴィクトワール山の絵を観ていて、思わず泣きそうになってしまった。この絵の美しさはどこからくるのだろう。もともとセザンヌのこのシリーズは割と気に入っている。同じ西美の「北斎とジャポニスム展」にサント=ヴィクトワール山の絵が三枚展示されていた。1枚は1886-1887年頃のものでフィリップス・コレクションのもの。あとの2枚は1904-1906年頃でブリジストン美術館とデトロイト美術館のものだ。
コートルードの作品は1887年頃でフィリップス・コレクションと構図的には似ている。いずれも左側に大きな木があり、枝ぶりによって囲まれた借景のような構図となっている。ただしフィリップスのものは全体的に明るく、若々しく緑が濃い。それに対してコートルードのものはやや色調が落とされ渋みというかセザンヌらしい色面になっている。
セザンヌはピサロ等と屋外で絵を描いていた頃の印象派的作風から、じょじょに色面や形態を意識したオリジナリティが作品に表れてきたというところだろうか。自分は晩年のデフォルメ化してくる作品よりは、この頃のものがどちらかといえば好きではある。
傑作だと思う。構図という点ではテーブルに置かれた総ての物が雪崩をうつように下に滑り落ちるだろう。多視点の導入と画家の目による極端に強調された構図でもある。それがまさしく中央のキューピッドなのである。観るものはすべてこの中央に描かれたキューピッドに視線を注ぐことになる。
色使いとともに画家が得意とした果物の静物もこの絵の中でただの周辺装置といった趣である。斜めにありえないような湾曲したテーブルの延長をキューピッドを引き立てるための意匠である。
不覚にもこの絵を前にして、目頭が熱くなり、ウルウルとしてきた。画家の意匠と表現にある種の感動を覚えた。
スーラの点描画はどうしてこう静謐で抒情性に溢れているのか。科学的な色彩研究から見出された点描という表現が、他の画家シニャックやエドモン=クロスのような情動性とは真逆な詩情を獲得しているのか。
スーラはキャンバスに点をうつ抒情詩人だったということか。計算された点描表現、画力のある画家であれば技術として獲得することは可能だと思う。しかし、情感を抑えた静的な詩情を表出しえたのはこの画家だけかもしれない。彼のフォロワーのなかでは、まれにシダネルが異形な詩情を表出することがある程度か。
狂おしいほどに官能的である。以前、ポーラ美術館だったかでモディリアニの回顧展を観た時だったか、彼のパリでの個展が展示された裸婦が猥褻と告発され、その絵はゾーニングされたという解説を読んだ記憶がある。モディリアニの絵であのある種のデフォルメされた人物で猥褻と、ちょっとうなずけない部分があった。しかしこの絵を観て、自分の認識の甘さを痛感した。この絵には猥雑さこそないが、見事な官能性がある。19世紀初頭のパリにあってはこの絵は猥褻な作品といわれても仕方ないかもしれない。それは歴史的な限界でもあるかもしれない。
俯く女性の表情は物憂げである。その肢体は美と官能を表出している。この絵がこの企画展の絵画におけるトリ、最後に飾ってあるのは、この絵のインパクトの強さを慮ったからなのかもしれない。この絵は他の絵を一瞬にして無力にしてしまうくらいのインパクトを秘めているかもしれない。セザンヌもモネも、目玉でもあるマネでさえも、一瞬忘れさせてしまう、そういう刹那的なインパクトがこの絵にはある。
(ちなみに画像はGoogle Earthの美術家からダウンロードした。)