埼玉県立近代美術館「シアトル→パリ 田中保とその時代」から見えてきたもの (7月31日)

 もう10日以上前のこと、7月31日に埼玉県立近代美術館(以下MOMAS)で始まった田中保の回顧展「シアトル→パリ 田中保とその時代」を観た。そしていろいろなことを考えているのだが、考えがまとまらない。

2022.7.16 - 10.2 シアトル→パリ 田中保とその時代 - 埼玉県立近代美術館 The Museum of Modern Art, Saitama

 田中保は埼玉出身の画家ということで、MOMASと最近閉館したサトエ記念21世紀美術館が一番作品を所蔵している。過去にも何度かMOMASでは回顧展が開かれているのだが、久々大規模な企画展でもあり、楽しみにしていた。

 田中保というと自分たちのイメージするのは、アメリカや欧州で認められた日本人画家ということ。18歳で単身にアメリカに渡り、苦学しながら絵を学びアメリカ画壇で認められ、判事の娘である白人女性と結婚しアメリカで成功を収めたのち、パリに渡りエコール・ド・パリ派の一員として活躍。二つの大戦の間、多くのが異邦人画家が母国やアメリカに渡っても、そのままパリに残り客死する。そしてそのまま忘れられてしまった画家というのが、70年代以降再評価された田中保の一般的イメージだ。

 しかし今回の回顧展ではそうしたイメージを覆すような新たな知見もまた紹介されている。図録の巻頭を飾る小論文「”幻の画家”を解体する-田中保の虚像と実像」(佐伯綾希)は田中保像の再検証を行っている。

田中の人物像については、しばしば印象論や断片的なエピソードの集積として、あるいは推測を重ねた半フィクションの形で語られていった。その結果、”幻の画家”-すなわち、海を渡って華やかな裸婦を描き成功を掴んだが、幻のように忘れ去られてた画家-という謎めいたイメージが宙づりのままに残されてきたのである。

 本展覧会「シアトル→パリ 田中保とその時代」では、同時代資料を現在の視座から読み直すことで「田中保」像の再検証を試みている。

「”幻の画家”を解体する-田中保の虚像と実像」(佐伯綾希) 「図録」P6

 田中保はシアトルで画家として一定の成功を収めつつある頃に、判事の娘であり離婚歴のある文芸評論家ルイーズ・ゲブハード・カンと結婚する。白人女性と結婚した東洋人の画家というある種のサクセス・ストーリーとして語られてきた事柄について、実際はどうだったのか。この結婚はシアトルだけでなく全米でセンセーショナルに報じられいている。当時の移民法で外国人男性と結婚したアメリカ人女性は夫の国籍に従うとされ、カンはアメリカ国籍を奪われている。

 そこには当時、いや現在でも続いているアメリカ社会での人種差別の問題が通底しており、田中と妻カンはかなり深刻な人種差別の白い目に曝されていたようだ。

 さらに田中保がまだ画家として成功する以前、どのような生活を送っていたのか。19歳でシアトルの地についてからは、農家の手伝い、ピーナッツ売り、コック見習い、果物商などの職を転々としていて、22歳の頃から独学で絵の勉強を始め、26歳にして初めて当時シアトルで画塾を開いていたオランダ人画家フォッコ・タダマの元で学び始め頭角を現す。その前後に田中はカリフォルニア州オークランドの詩人ホアキン・ミラーの邸を訪れている。図録の「”幻の画家”を解体する」にはこんな記述がある。やや長いが引用する。

 こういった資料からは、これまで明らかにされなかった田中の一面が浮かび上がる。パートリッジ寄贈の書簡群には、田中夫妻からサンフランシスコの画商フレデリック・C・トーリーに宛てた書簡のほか、田中からカニングハム(女性写真家)に宛てた書簡の文字起こし2通分が含まれる。もう1通は1909年のものとされ、田中がカリフォルニア州オークランドにあった詩人ホアキン・ミラー邸から送ったものである。ザ・ハイツと名づけられたこの敷地は、19世紀末にヨネ・ノグチ(野口米次郎)が滞在し、詩人としての第一歩を踏み出した場所であった。芸術家が集ったザ・ハイツでは、その後も日本人の青年たちを使用人として置いていたが、彼らはときに愛でられる対象にもなった。かってノグチと愛人関係にあった詩人チャールズ・ストッダードは、田中の友人であったイッショー(イチゾウ)・クゲを寵愛した。田中が書簡のなかで数枚の絵画を制作したことを報告しているように、ザ・ハイツの環境は日本人青年たちが各々の芸術家修行に励むことを可能にしていた。反面、彼らに向けられた視線は、西洋に対置されるところの東洋を従属的な存在とみなし客体化する、いわゆるオリエンタリズムの範疇にあったと言ってよいだろう。

 「芸術家が集ったザ・ハイツでは、その後も日本人たちを使用人として置いていたが、彼らはときに愛でられる対象にもなった」。これはどういう意味だろう、芸術家の集うザ・ハイツはある種の私娼窟的な部分もあり、そこでは若い東洋人の青年たちが性的な対象とされていたということなのか。

 田中保がザ・ハイツでそういう存在だったのかどうかはわからない。しかし1900年代初頭のアメリカでは「東洋を従属的な存在とみなす」ようなオリエンタリズムの範疇があったのかもしれない。

 田中保は19歳でシアトルに到着して以来様々な職業についている。言葉もあまりできない東洋から来た少年が異国の地で生きていくのはかなりハードだったことは容易に推測ができる。おそらくはかなり低層の職業が中心だっただろう。その中で生活のあいまに絵を描くことに夢中になり、そこで自己表現をする道を選ぼうとする。とはいえ画材を揃えるのも至難だ。アメリカ西海岸での底辺的な生活、その中では現代の常識では測りしれないような境遇を強いられる局面、それも性的な部分を含んだハードさがあったのかもしれない。

 そんな中、アメリカの一般的な社会常識の部分から零れ落ちた女性が出現する。批評家として名をあげることを望み夫と別れたルイーズ・ゲブハード・カンは、田中の後援会に出席し彼の芸術性を賛美する。田中とはカンは恋に落ち結婚する。しかしアジア人排斥の風潮の中で、アメリ市民社会は日白結婚に冷たい好奇な目を向けるばかりだ。田中保はアメリカの画壇で成功し、活躍の場を欧州に移したのではなく、厳然たる人種差別の壁があるアメリカから逃れるためだったのかもしれない。

 そしてパリでも画家として一定の成功を収めるも、外国人に対しては税負担が重く、生活は楽にならない。そんななか田中保や日本への帰国を夢見、欧州から帝展に出品するも落選して失望の目にあう。帰国を乞いながらも母親の死を知りさらに絶望する。

 パリでの田中保は、同じ渡欧中の日本人画家たちとも距離を置き、ほとんど交流がなかったという。多くの日本人画家は、日本の画壇に属していて、留学、遊学という形で欧州に来ている。出自はあくまで日本人画家ということだ。それに対して田中保は移民という形で単身アメリカに渡り、そこで一から画業をスタートさせている。ようは日本画壇とはまったく関係性がない。

 パリ時代の田中は同じパリで画業を成功させていた藤田嗣治とも、かってアメリカで絵を学び合った清水登志らともほとんど交流がない。なぜなら田中には他の日本人画家とは異なり日本画壇というバックボーンを持たなかったからだ。

 アメリカ時代、裸婦を描く田中に対しては、挑発的な白人女性の裸婦を描く不埒な東洋人画家としての批判もあったという。少なくともそうした偏見に基づく批判は、パリではなかった。しかしアメリカでも、パリでも、田中は圧倒的に孤独だったのだろう。日本に凱旋帰国することも叶わず、唯一の理解者である妻と寄り添って暮らす日々。彼にとっては職業画家としての自らの絵の才能を信じ、そのことによってのみアイデンティティを得ていくしかない。

 1941年、ナチス占領下のパリで田中保はひっそりと亡くなった。享年54歳。19歳で故郷日本を出国してから一度も帰国することなく異邦人、孤独な東洋人芸術家としての生涯を終えた。異郷での人種差別や経済的な差別にさらされた生涯。それらを知ったうえで改めて彼の作品を観てみると、どの作品にもそこはかとない孤独を感じる部分があう。そして裸婦の田中、その裸婦画には、愛妻カンへの思慕や、西洋の女性への憧れ、そんなものが入り混じっているような気もしないでもない。

 自分はなぜ田中保の絵に惹かれるのか。正直それを言語化するのは難しい。でもその一端には、彼の孤独の投影をみるような部分があるかもしれない。

「裸婦」 1924年 埼玉県立近代美術館

「背中の裸婦」 1920-30年 埼玉県立近代美術館

「ばら色の部屋着」 1920-30年 埼玉県立近代美術館蔵(埼玉銀行寄贈)

「泉のほとりの裸婦」 1920-30年  埼玉県立近代美術館蔵(埼玉銀行寄贈)

 今回の回顧展でMOMASが田中保作品が相当数所蔵されていることは確認できた。埼玉所縁の画家として蒐集に務めてきた成果といえるだろうか。同様に田中保作品は先日惜しくも閉館となったサトエ記念21世紀美術館もかなりの収蔵している。今回、佐藤栄学園から約10点の作品が貸し出されているが、残念ながら以前観た裸婦の秀作がほとんど抜けている。同様に自分が最初に田中作品に接した池田20世紀美術館の「夢みる裸婦」も出来れば今回の回顧展で観たかった。こんな作品だ。

「夢見る裸婦」 池田20世紀美術館所蔵

 今回の回顧展は10月までのロングランである。出来れば何度か足を運びたいと思っている。