「コロンバス」を観る

コロンバス(字幕版)

コロンバス(字幕版)

  • ジョン・チョー
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 アマゾンプライムで観た。まったく事前情報なしなので期待もなく、もし退屈だったらすぐにやめてしまおうくらいの気持ちで観たのだが、思いの外面白く観ることができた。とくに物語としての起承転結もあるでもない、静的で淡々と時間が経過していくのだが、だからといってダレるということもない。ひょっとしてこの映画、けっこう名作なのではないかと途中から思えてきた。そういう映画だ。

 お話は、韓国系アメリカ人で著名な建築学者が講演ツアー中に倒れる。韓国に住んでいる一人息子のジンは急を要するという連絡で、モダニズム建築の街として知られるコロンバスを訪れる。父親はおそらく脳血管系の疾患のようで意識がまったくない。ずっと父親とは疎遠だったジンとしては、なんで自分が父親の面倒をみるのかというわだかまりを抱えつつ、この街で父親が滞在していたホテルで暮らしながら父親を待つことになる。

 一方、地元の図書館に非常勤で働く少女ケイシーは、街にあるモダニズム建築に詳しく、いつかは建築をきちんと勉強したいと思いながらも、薬物依存症の母親の看病をするためにコロンバスに留まり続ける。

 街を散策する途中でジンは偶然ケイシーと出会い、二人はケイシーの案内で街の建築物を巡るようになりじょじょにお互いの距離を縮めていく。父親との確執から建築に対しても複雑な感情を抱えるジンと、母親のために建築学への思いをあきらめざるを得ないケイシー、それぞれの複雑な感情が二人の会話の中で交錯していく。

 そして最後、意識を取り戻さない父親の看病が長期に及ぶため、ジンはホテルを出て部屋を借り、この街での長期滞在を余儀なくされる。それに対してケイシーは母親との生活を捨て別の街の大学で建築学の勉強をすることを決心する。それはまた母親にとっても、薬物依存のため娘に面倒をかけてきたという負い目から、娘の自立を望んでいたことでもあった。

 そしてジンとケイシーはそれぞれ別の人生に向かって歩き出す。

映画『コロンバス』オフィシャルサイト

上映時間:104分

制作  :2017年

監督  : コゴナダ

キャスト:ジョン・チョー、ヘイリー・ルー・リチャードソン、ロリー・カルキン

 

 この映画の素晴らしさは一つ一つのカットが非常に美しいことだ。コロンバスというモダニズム建築物を美しく、しかも計算しつくした構図によって撮影している。静的な雰囲気と美しい構図、なんかこれって日本映画っぽいなとあとでオフィシャルサイトとかで確認すると、この映画は小津安二郎にオマージュをささげた映画だという。なるほどという感じである。そもそも監督のコゴナダは韓国系アメリカ人だが、この名前は小津映画の脚本で知られている野田高梧にちなんでいるのだとか。コーゴノダ、コゴノダ、コゴナダ、三段活用みたいだ。

 しかもコゴナダ氏はもともと映画評論家、研究家で、映画に関する分析的なビデオエッセイで知られているのだとか。

http://kogonada.com/

 このサイトにある「小津の通路」とかうまく編集されていて面白い。そしてこの通路と同様のカットもこの「コロンバス」の中でも随所にちりばめられいた。

http://kogonada.com/portfolio/ozu/passageways

 

 そうやってみるとこの映画はまさしく小津映画へのオマージュであり、引用によって描かれている。その計算しつくされた美しい様々なカットが、その緊張感が単調な物語を補ってなお余りあるものにしている。なぜこの映画を深夜に、オチることなく観ることができたのかその理由がわかったような気がした。

 さらにいえばこの映画はコロンバスの美しいモダニズム建築を美しく撮った映画でもあるのだけど、それは単なる観光映画でも、美術作品の鑑賞映画でもない。建造物は一種の素材であって、それを映画の物語のために有効に活用するために構図を計算しつくして撮っている。多分、それぞれの場所でのロケーティングに相当の時間を割いたのではないかと思う。

 しかし最初コロンバスというから、当然あのコロンバス。フィリップ・ロスの『さよならコロンバス」の、オハイオ州のコロンバスかと思ったのだが、この映画の舞台はインディアナ州のコロンバスである。人口はオハイオ州の方は214万人、それにたいしてインディアナ州のそれは3.9万人。おそろしく小さな街なのである。

 そういう小さな街に点在するモダニズム建築の作品的建造物。それはこの街の唯一の観光施設でもあり、多くの観光客が建築ツアーの観光にやってくるのだ。映画の中でもガイドが旗をもって観光客を案内しながら建造物の解説をするシーンが何度も出てくる。主人公のケーシーは建築の勉強をしたいが果たせずに図書館で働いている。彼女はさかんに一人でガイドの練習をしている。母親と暮らし街を出れない彼女はガイドになって、建築とのつながりを持とうとしているのだ。

 

モダニズム建築とは

モダニズム建築(英: Modern Architecture)または近代建築は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ。

モダニズム建築 - Wikipedia

 

コロンバスにある主なモダニズム建築

ハリー・ウィーズによるファースト・バプティスト・チャーチ。
エリエル・サーリネンによるファースト・クリスティアン・チャーチ
エーロ・サーリネンによるアーウィン・ユニオン銀行。
ジョン・Carl Warneckeによるマーベル・マクダウェル・スクール
エーロ・サーリネンによるJ・アーウィン・ミラーの邸宅ミラー・ハウス
エーロ・サーリネンにより設計された、ノース・クリスティアン・チャーチ

ヘンリー・ムーアによって彫刻された Large Arch。

コロンバス (インディアナ州) - Wikipedia

 小津安二郎へのオマージュだからといって、この映画には畳に座る人物をローアングルで撮るようなシーンはもちろんない。でもそうした小津映画で多用される対称形の構図が建築物を映すカットに、その建築物をバックにした人物配置にも多用されている。そしてその左右対称形の構図が微妙にずれたり、人物の配置が前後したり、離れたり距離を縮めたりする。それが人物同士の心理的距離感を示していたりするのだ。小津映画の構図にはそういう意味もあったのかと改めて思ったりもした。

 

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 この十字架は微妙に左右対称からずれていながら、バランス的に破綻してない。これが最初に紹介される建造物である。対称を装いつつ微妙に中心をずらすという均衡を欠いた心理状態についての暗示。

 

 左右対称の構成美。

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 微妙なずれ。

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近づいていくジンとケイシーの距離。

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主役の二人について

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 ジョン・チョーは1972年生まれの49歳。ソウル生まれの韓国系アメリカ人で「スター・トレック」シリーズなどに出演するキャリアの長い俳優。

ジョン・チョー - Wikipedia

 図書館に勤めるケイシー役ヘイリー・ルー・リチャードソンは1995年生まれの26歳。この映画のときには22歳と初々しい。薬物依存の母親との暮らし、そのため大学で建築学を勉強するという夢を諦めた少女という複雑で少し神経質な少女役を好演している。

ヘイリー・ルー・リチャードソン - Wikipedia

 ケイシーの同僚できちんと大学院で図書館学の修士をとっている図書館司書役のロリー・カルキンは「ホーム・アローン」などで有名な子役マコーレー・カルキンの実兄だそうだ。ちょっと神経質そうな雰囲気、誰かに似ているなと思ったのだが、若い頃のトッド・ラングレンとかサッカーのヨハン・クライフに似ていないだろうか。ということはトッドとクライフは似ているのか。まあどうでもいいか。

ロリー・カルキン - Wikipedia

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 この映画は微妙な思わせぶりなシーンはあるが、いわゆるセックスシーンもないし当然というか誰も死なない。そういうカタルシスが一切なく、ただただ淡々と主人公たちが建築巡りをしながらお互いの距離を縮めたり離れたりする。長いそれぞれの人生の中でのほんの短い一時の出会いと別れを描いているだけだ。安易なカタルシスもなく、盛り上がることも特にない、建築物と限られた人物の心理を細かい計算された美しい構図、カットによって紡いだ映画だ。そして各カットには小津映画への確かなオマージュが凝縮されている。

 けっこう映画好き、古い映画好きにはけっこう魅入るような部分があると思う。「コロンバス」は買いだと思う。

 そういえば何度観ても途中で投げ出してしまう山田洋次監督の「東京家族」、あれも小津安二郎の「東京物語」のオマージュらしいのだが、あれはちょっとしんどい映画だなという気がずっとしていた。そしてその解がこの「コロンバス」にあったかもしれない。小津映画は構図が命なのだ。計算された構図と配置された人物、そこに単調なセリフのやりとりと人物のアップのカットバック、そこから生まれる緊張と心理描写。カットごとの様式美。

 そういったものを無視してただ単に人物や人間関係の構成だけを換用して山田洋次的な人情ものに仕立て上げたと。それはちょっと言い過ぎかもしれないけど、あの映画には美しい構図も、静的な雰囲気のいくばくも感じることはなかったような気がする。多分小津映画のオマージュを作るには山田洋次は大成し過ぎてしまったのかもしれない。

 まあこれも余談の余談、適当な思いつき。