栃木県立美術館「日本画のゆくえ~継承と断絶・模倣と創造」(1月29日)

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企画展[日本画のゆくえ]|栃木県立美術館

 栃木県立美術館で1/29日から始まった企画展「日本画のゆくえ~継承と断絶・模倣と創造」の初日に行って来た。

 近代以降日本に導入された西洋画(油彩画)の対概念として明治20年代に定着したといわれる「日本画」。しかしその定義は実は曖昧であり、常に「」で括られる形で使われる。狭義では岩絵の具を膠で溶いて定着させるという画材の面から顔料を油で溶いて定着させる油絵と対峙させて使われる。この場合は「油彩画」に対する「膠彩画」として扱われる。

 前述したような西洋画に対する形で使われる「日本画」には、明治以前の絵は含まれないと説く美術史の概説書もある。それは「浮世絵」であったり「大和絵」であったりなどなど。そうした中で「日本画」をより広義な日本人画家によって描かれた「日本の絵画」の中に収斂させようとする批評家、研究者も多いという。

 今回の企画展では現在活躍中の日本画家の作品を通して「日本画」の現在と改めてその意味を問う試みのようだ。

 本展では、現在日本画家として活動する気鋭の画家たちによる作品を通して、明治・大正・昭和の激動期から平成を経て令和に至る「日本画」が、その歴史上にに今も存在するのか、それともピリオドを打ったのか、もしくは「新しい日本画」が誕生したのかということを問いかけたい。(チラシより)

出品作家たちと「今なぜ日本画」なんだろう

浅葉雅子  1959年生

伊東正次  1962年生

榎 俊幸  1961年生

木村了子  1971年生

高村総二郎 1965年生

棚町宣弘  1971年生

服部しほり 1988年生

服部泰一  1969年生

早川 剛  1976年生

山嵜雷蔵  1991年生

若佐慎一  1982年生

 出品作家は以上の11名だ。

 なぜ彼らは現代において日本画というメディア(あえてそう呼ぶ)を選び創作活動を続けているのだろう。紙や絹という支持体、岩絵の具や膠という画材を今使う意味は。たまたま大学の日本画科を出たからという消極的な動機だったり、強烈に伝承ー継ぐ者という自覚をもって日本画に関わる作家もいる。

 ただし観る側の勝手な言い方をしてしまえば、別にこれ日本画のフォーマットで表現しなくてもいいだろうみたいな突っ込みをいれたくなる作品もないではない。ポップアートであったり、抽象絵画であったり、あるいはもっと保守的な写実性のある風景画であったりと作品が多彩だが、なんで日本画、岩絵の具、膠、紙本、絹本でやる必要あるのと思ったりしないでもない。別にアクリル絵の具でいいじゃないかみたいな部分。

 意地悪くいえば、現代アートにおいてはもう沢山の作家が、様々な画題、画材を使って多種多用な作品を描いている。相当な技術、表現力、発想などにおいて図抜けた部分を持っていないと多分、数多あるアーティストの中でオリジナリティを見出せない、差別化できない。だからあえて日本画というメディアを選ぶみたいな部分、ないだろうか。ただのポップアートではなく日本画によるポップアートとかただの抽象画ではない日本画による抽象画的な。

 今回出品した11人の作家たちはいずれも才能豊かな人たちだとは思う。観ていて好きか嫌いか、面白いかそうでないか、美しいかそうでないか、まあニワカの第一印象的な部分での感想や選別になってしまう。けれど、なぜこの作家は日本画でこれを描いたのだろう、なぜ日本画というメディアでこの作品を描いたのだろうとか、そういう引っかかりをもって作品に接してみようとは思った。

図録とテキスト

 正直にいうと現代の日本画家の作品群という点でいうと、なんかスケールの小さめな院展という印象をもった。ぶっちゃけ「日本画」の現在を俯瞰するという意味では院展に行ってみるのが一番みたいな部分がある。まちがいなくそこには良質な今の日本画作家の作品が沢山ある。ただし保守的な体質もあるのだろう、アウトサイダー的な作品は多分除外されているようにも思う。本人たちも出品する気など毛頭ないだろうが、木村了子や若佐慎一の作品をあそこで観ることなどないかもしれないし。

 自分のようなニワカ鑑賞者にとって、今回の作品群はいささか荷が重い。企画展主催者の意気込みや熱量は感じないでもないが、11人の出品作家の作品は面食らうもの、理解に一定のコンテキストが必要なもの、ただただ面白いと思うかどうか的な取捨選択を迫るものなどなど。要は説明が一定程度必要なのではないかと思ったりもした。

 作品を前にしたら「考えるな、感じろ」的なブルース・リーあるいはフォース的な態度が必要かもしれないけど、凡人にはきちんと説明が必要だと思える。そういう点でいえば、今企画展の図録には、出品者の「日本画」論や「日本画」観がそれぞれの言葉で書かれている点、どの作品が何のオマージュなのかみたいなことが書かれていてけっこう参考になる。出来ればこうした作家の言葉の抜粋を作品あるいは作家のプロフィールと共に提示するなど、鑑賞者の理解を手助けすべきではないかと思ったりもした。

 それでもいわれるか、「テキストなど不要。感じろ」と。

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作家のことば~「日本画観」

 図録の中にある作家の日本画観で面白く感じられたものを幾つか長くなるが一部引用する。

浅葉雅子

まず私がアーティストとして意識していることは、日本画は極めて政治的なアートのジャンルということである。日本画と名乗った作品は、作家が意識するしないにかかわらず、保守的な要素に親和性を持つと考えている。日本画が近代国家成立のために明治期に国家による強いサポートの元に作られた様式であることは今日広く知られている。その事実は過去の出来事というだけでなく、現在もさまざまに影響している。

 日本画の作品というと、多くの日本人はそこに伝統や美しい四季、秩序と調和といった国民のアイデンティティーの統合としての絵画を期待する。それは常に国家が文化に期待するものである。アナーキー、扇情的、退廃的といった、社会的秩序維持にマイナスとみなされる作品を国家は歓迎しない。しかし本来アートはそれら全てを含むものであるはずだ。それゆえに私は「図らずも間違ったメッセージを伝える作品を描いてはいないか」と自作の政治性に自覚的であろうと務めている。

 私は自らを日本画家と名乗ることはない。しかし、大学で日本画を学んだ者としてあえて日本画にお別れ宣言をすることもしていない。その理由は、何でもありのポストモダン現代アートシーンにおいてメディウムや手法で自らを分類することは意味がないと考えるからである。。

 グローバルなアートシーンでは日本画はただの平面画面に一元化され、そこでは作品が優れたアートであるかどうかのみが問われる。現在、日本画がそのような場で認められる絵画作品を創りだしているかというと否定的にならざるを得ない。それは日本には確固たる日本画のアートワールドが存在しているにもかかわらず、そこで決定される作品の価値が世界の視点としばしば一致しない事を意味する。

図録 P18~19

 かくも明確に日本画の政治性を明示する。「日本画」が明治という近代国家の形成過程で、ある種国家の働きかけによって生まれたこと、そのため「日本画」に強烈な国家意識ともいうべきナショナリズムと郷土意識のようなパトリオティズムを内在しているという説明はまさにそのとおりなのだろう。そして国内では「日本画」という確固たるメディアとして存在していても、世界基準ではきわめてローカルな異境の民族アート的でしかないというのも間違いなく事実だろう。

 ただし明治期に生まれた「日本画」には、まだ統一国家としてのナショナリズム的な国家意識や「日本」という統一した郷土=愛国的な観念は希薄だったのかもしれないと思ったりもする。例えば明治の画家たちが郷愁を感じたのは国家ではなく、明治以前の育った町の風情であったり情緒であったりした。国家的な「日本画」を推進した横山大観一人が天皇制国家のシンボライズした富士や日の丸を描いていたような気もしないでもない。

伊東正次

日本画とは何か?」という考察には、4つのアプローチの仕方があると思うが、その前にまず結論を申し上げれば、「日本画の定義はない」あるいは「定まっていない」と言うのが、現在の定説だる。その上で4つのアプローチとは、

材料(特に接着剤)の面から考える方法

顔料を油の接着剤を使って画面に着ければ油彩画、天然樹脂を使えば水彩画、合成樹脂を使えばアクリル画、膠を使えば日本画ということになる。

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システムの面から考える方法

一番現実的な方法であるが、大学で日本画家を出ている人は日本画家、公募展の日本画に出品していれば日本画、デパートで日本画展と銘打っていれば日本画であるということで、現実的にはかなり機能している分け方であるが、これは定義とは言えない。

歴史から考える方法

日本画という言葉が初めて生まれたのは、明治期にフェノロサがこれからの日本の絵画を「Japanese paintings」と呼んだのが最初と言われている。したがって、日本画家・横山大観とは言うけど、日本画家・狩野永徳とは呼ばないのである。雪舟若冲然り。

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属性から考える方法

ここではかいつまんで話をするが日本画を見たときに、「日本画っていいわね。やっぱりしっかりくる。心が落ち着く」、「言葉でははっきりと言えないけど、日本人に生まれてよかったね」みたいな感覚である。このようなものを指して日本画の定義とは呼べないが、実は、日本画を一番象徴的に表しているとも言えるのである。

 きわめてわかりやすい「日本画」の定義である。4つめの「属性」は浅葉雅子のいう「多くの日本人はそこに伝統や美しい四季、秩序と調和といった国民のアイデンティティーの統合」と呼応する。日本画のもつパトリオティズム的な部分を平易に言いあらわしているように思える。

榎 俊幸

現在、ほとんどの日本画家たちが、美術大学日本画を専攻し、卒業後は日本画の団体展に所属している。私は、大学でデザインを専攻し、団体展には所属していない。国内の美術市場では、洋画家に分類されている。しかし、香港のオークションで、私の作品は現代美術として扱われる。外国人の目から見れば、現代的な日本美術なのである。

 日本画という区分、定義はある意味で国内的な部分での単眼的なものなのかもしれない。榎がいうような現代的な日本美術、それは日本人の作家によるトラディショナルな民族アートの現代版ということでしかないということになる。西欧文化が主流である以上、メインストリームにあるのは洋画=油彩画である。それに対して墨や岩絵の具による二次元的な絵はローカルな民族アートという括りになってしまうのかもしれない。

気になった作家・作品-伊東正次

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              「松鷹図」-伊東正次    ( 図録より)

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「雪中野仏図」-伊東正次  (図録より)

 ある意味、本企画展で最もオーソドックスな日本画作品及び日本画家。繊細な線による写実性などトラディショナルな画風かつ、「松鷹図」のような古典的な画題で立体感のある描写はさすがというか。現代においてもこういう日本画はまあ普通にありだとは思う。

気になった作家・作品-棚町宣弘・早川剛・榎俊幸

 

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「過日」(部分)-棚町宣弘   (図録より)

 細密描写と写実性。見事な表現力だとは思うけどこれは日本画でなくてもとか思ったりもする。とはいえ好き嫌いでいったら圧倒的な好きな絵だし美しいと思う。

 

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那須岳」-早川剛   (図録より)

 ドイツ表現主義の、そうだなあ、マルク、キルヒナーみたいな感じがする。油彩で厚塗りみたいな感じになるけど、こういう日本画もあっていいかもしれない。

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『三猿』-榎俊幸   (図録より)

 スタイリッシュで装飾的、これもまたオーソドックスというかメインストリームの日本画、美しい作品だと思う。

気になった作家・作品-服部しほり

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       『寒山拾得』       『人魚図』-(服部しほり  (図録より)

 藤原しほりは1988年生、今回の出品した作家の中でも一番若手のようだ。線描の美しさは際立っている感じがした。ただし人魚はどうしてこうもグロテスクになってしまうのだろう。鏑木清方を意識して妖艶な美の逆張り狙わざるを得ないのか、あるいは高橋留美子以来人魚はグロテスクにという決まりでもあるのだろうか。

 もともと書道教室に通い毛筆に慣れ親しんだことが原点となっているという。そうした手習いとお描きが乗算されて彼女の日本画=書画は構築されてているというが、確かに太く細くと自在な筆のコントールから描かれる線は彼女のベースという以上に才能を感じさせる。この画家は今後どう成熟していくのか注目したい。

気になった作家・作品-木村了

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「水禽図屏風-人魚狩り」-木村了子   (図録より)

 木村了子は埼玉県立近代美術館(MOMAS)「美男におわす」以来である。イケメン描いて15年の日本画家さんで、新潟県燕市にある国上寺の外壁面イケメン画も話題になった。図録の学芸員の解説によると、この絵は狩野山雪「水禽図」や熊斐「波に鵜図」の影響を受けているというが本当にそうだろうか。

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「水禽図」(狩野山雪

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「波に鵜図」(熊斐)


 とにかく鵜飼で人魚狩りしかも人魚はみなイケメンという破天荒ぶりだ。

 国上寺のイケメン画も文化財の保存に反するとして、市からは撤去の指示が出て住職がそれを拒否したなどという話もあるが、とにかく木村了子のイケメン画はその官能性や猥雑感からちょっと引かれる、あるいは大きな拒否反応を生じさせるかもしれないとは思う。実際、日本画の新鋭の作品を観に来ていきなりこれはとなる。

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「蓮池寝仏図」-木村了子 (図録より)

 自分はというとやっぱりMOMAS「美男におわす」である種の免疫が出来ていたのが大きい。そしてよく観るとこの人の線描はしっかりとしているというか、美しい。もともと油絵の人だったらしいが、相当に日本画を研究されたのだろう。線の美しさという日本画の重要なポイントをしっかり押さえている。日本画の中でも北野恒冨が好きだということらしいが、妖艶さや退廃美みたいなのところは北野の影響なのかもしれない。

 ただしこの人の大画面のイケメン画、上の「水禽図屏風」にしろ、今回出展されている「魔都の海-龍宮楽園図屏風」にしろ、MOMASで観た「男子楽園図屏風」にしろ、どこかユーモラスでエロスとグロが同居するような絵柄、これってどこかで既視感があるなと思ったのだが、これって会田誠のあれ、美少女のやつのイケメンバージョンじゃないと思ったりもした。エロ、グロ、ロリコンやBLと芸術性の境界点みたいな。まあいいか。

 あとこの人のデカい画面の作品はどこか川端龍子の会場芸術を想起させる。まあ自分の勝手な思い込みかもしれないけど。そういう目で観るとこの作品などけっこう龍子的みたいに思えてくる。

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「天弓愛染明王象」-木村了子(図録より)    「火炎」(川端龍子

 いずれにしろクセになる画風画題の人でもある。またどこかの美術館で出会ったら、「おお、木村了子」と見入ることになると思う。

気になった作家・作品-浅葉雅子

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「落葉」(2008年) 浅葉雅子

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「落葉」(2021年)-浅葉雅子   (図録より)

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「落葉」(一部) 菱田春草

 作家の言葉として明示的に日本画の政治性を語る浅葉雅子の出品作品は、菱田春草の「落葉」を画題にした作品だ。鮮やかな色彩による平面的でポップなイラスト的作品だ。春草が色彩の濃淡で立体感や遠近感を描いた作品だが、2008年版の「落葉」は鮮やかな色彩ではあるが奥行き感はまったく感じさせない。しかし2021年バージョンでは微妙な濃淡やある種のモザイク処理みたいな工夫で微妙な奥行き感を表出しているように思える。古典名作をこういう形で昇華させるというのもありかとは思った。

 そして多色刷木版画風浮世絵をモチーフに現代風俗を描く浮世絵シリーズ。面白い試みだけど、パロディ精神や批評性を感じさせはするが、このへんはなんとなく既出感があり意外性は見いだせなかった。まあ面白いといえば面白いのだけど。

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「時間旅行・歌舞伎町でゴジラに出会う」-浅葉雅子  (図録より)
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 「時間旅行・Overlook Hotel」        「時間旅行・いっしょに遊ぼうダニー」    -浅葉雅子    (図録より)

気になった作家・作品-若佐慎一

 若佐慎一は、大学、大学院と日本画科で9年を過ごし大学院時代に院展に初出品、初入選を果たしている。画力、才能のある人なのだと思う。しかし以後この人は日本画というメディアの中で様々に試行錯誤を重ねている。模倣、具象、抽象、ポップアートなどなど。ある意味では一番わからない作品、作家かもしれない。この人の作品を観ていると、もはや日本画は線描がどうのという部分を超越しているような気もしないでもない。

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           「彼岸獅子図」 「全ては宇宙と繋がり続け、招き続ける猫様」  -若佐慎一   (図録より)

 若佐慎一は日本画についての言及の最後にこう述べている。

現在の「日本画」が、歴史的に意味が有るか否かは、今の人達が決めることでなく、それは100年後の人達が決める事だ。

 しかし、今を生きる私たちが各々で、明治期の岡倉天心らのように、日本や日本式の絵画について考え、定義し、旗を立て、行動を起こしていくことで、過去との「日本画」から連続する、現在、そして未来の日本の絵画を歴史に残すことになるのではないだろうか。

 私はその歴史の一部になれるように、一生をかけて挑戦したい。  図録P95

 この若い作家のステーツメントをなんとなく信じてみたくなる。この作家の作品もどこかの美術館で見かけたら、「おお、若佐」としっかり反応してみたいと思う。

最後に本展覧会について

 最初にスケールの小さい院展みたいと野暮なことを書いたけれど、この企画展は現在活躍中の「日本画」作家の意欲的な作品を集めた秀逸な展覧会だとは思う。ふだん中々こうした現役のイキのいい作家の作品に触れる機会、なかなかないことだとは思う。ふだんは古典好き、名画好きなので、日本画はやっぱり竹橋の近代美術館に足を運ぶことが多いが、こうした現役の作家たちの作品はああいう評価の確定した作品を集めた美術館ではなかなか見つけることはできない。栃木県と都内近郊からだとなかなか足を運びにくい場所ではあるけれど、この企画展は機会があれば一度行ってみる価値は十分にあると思う。

 さらにいえば、栃木県立美術館には常設展示にもなかなか興味深い作品も揃っている。西洋名画ではカバネルやターナーもある。日本画も小堀靹音、小杉放菴小川芋銭などと揃っている。マイセンコレクションもあるしオートバイをモチーフにしたオブジェ「モーターサイクル・ママ」という傑作もある。

 しかし栃木県にはこの美術館とは別に今は休館中ではあるけど、宇都宮美術館もある。お隣埼玉県民としてはちょっとだけ羨ましくなる。

ちょっとだけ残念だったこと

 展覧会初日ということもあり、関係者らしき人と学芸員さんらしき人が作品の前で挨拶や名刺交換をしていた。そのままずっと話をしていたので、思わず「そういうのここでやらないで下さい」と言ってしまった。ちょっと「狭量なジイさんだな俺」みたいな思いもあり、少々後悔もあるんだけどまあ実際作品の真ん前だったということもある。

 この手のことでいうと、今年の初めに行った美術館でも同じようなことがあった。美術館関係者と多分プレスかなにかだとおもうけど、もう館内でペチャペチャクしてて凄く煩かった。その時は注意とかはしなかったのだけれど、あれをもし自分たち鑑賞者がやっていたら確実に監視員さんに注意されていると思う。

 展覧会初日で作家さんやプレスの人が来てたりとかはあるんだろうけど、画廊での個展とかではないので、鑑賞者を優先して欲しいという思いはある。美術館ってある種、関係者や作家が優先されるみたいなところあるんだろうか。作家さんや学芸員さんが内心では、「俺らが主役」みたいな気持ちあるかもしれないけれど、まあ一応美術館ということでいえば鑑賞者ファーストであって欲しいとか思ったり。せっかく遠方から高速使って来たのにと、そこだけは残念でした。