「ゴッホ展」に行って来た

 14日木曜日、東京都美術館で開催中の「ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとヴィンセント」に行って来た。

 ゴッホは日本人大好きだし、多分2021年芸術の秋の様々な企画展の中では確実に目玉的な展覧会だと思っていた。個人的にいうとゴッホは若い時はけっこう好きだったけど、歳いってからはなんとなく食指が動かない。あの熱量とか激情みたいなものが、若い時はすっと入ってくるのだけど、そこそこ人生枯れてくるとみたいな面持ち。

 いちおう出来ればどこかで観に行きたいとは思っていた。ただ多分混んでいるだろうしと少し敬遠していたのだが、ツィッターか何かでゴッホの点描作品が出品されているというのを見て、これはいかなくてはと決行することにした。

 ウィークデイの木曜日ということで少しはましかなと思ったけど、やっぱりというか当然というかけっこう混んでいて、作品の前にはゾロゾロと列が続いていて、音声ガイドのマークがあるところでは流れが滞ってといういつもの混んでる美術館の風景が。入ったのは2時近くだったのだけれど、時間が経つにつれて人増えているような感じだった。この分だと土日の込み方は多分半端ないと思う。まあゴッホだし。

 今回の企画展の売りは、ゴッホの世界最大の個人収集家だったヘレーネ・クレラー=ミュラーにスポットをあて、彼女が収集した作品を広く人々に公開するために創ったクレラー=ミュラー美術館の作品を中心にしている。さらにゴッホ作品を相続したゴッホの弟テオの妻ヨー(ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル)とその子によって作られたフィンセント・ファン・ゴッホ財団によるファン・ゴッホ財団からも4点が出品されている。

 またクレラー=ミュラーゴッホ作品だけでなく、写実主義から印象派、新印象派象徴主義キュビズムなどの作品も収集しており、ミレー、ファンタン=ラトゥール、ルノワールピサロ、スーラ、シニャック、ルドン、ブラック、モンドリアンなどの作品も出品されている。

 

 気に入った作品をいくつか。

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『ポー=アン==ベッサンの日曜日』(ジョルジュ・スーラ) クレラー=ミュラー美術館

 制作点数の少ないスーラの作品を観ることができるのは嬉しい。この作品は構図において明らかに浮世絵版画のそれを踏襲している。風にたなびく旗は大胆にカットされ、前面の手摺(?)は近像型構図のように大きくクローズアップされている。

 以前、どこかの美術館でガイドさんがモネの絵は離れてみればその良さがわかりますというようなことを仰っていて、割とどこへ行ってもそれを実行している。まあ、離れて観れば視覚混合が起きるという、それだけのことだ。経験則でいうとモネの場合はだいたい5メートルから7メートルというのが効果的かもしれない。

 当然、視覚混合を狙った点描派の作品もそうなのだが、計算された細かい点によって描かれたスーラの作品はどうかというと、5メートル以内でも視覚混合がおきる。なんなら3メートルくらいでも美しい画面が網膜内で再現されるみたいな感じだ。これが科学に基づいた点描画法かと改めて再認識。

 近くにあったピサロの絵などはやはり3メートル以上離れた方がいいように思えた。今回出品されスーラの隣に展示してあるシニャックの『ボルトリューの灯台』もシニャックにしては点描が小さくスーラのそれと近似している。その後、点描が次第に大きくなりフォーヴとの境界線に踏み込むようになった作品だと、もう少し離れて鑑賞した方がいいかもしれない。

 

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キュクロプス』(オディロン・ルドン) クレラー=ミュラー美術館

 よもやゴッホの展覧会でルドンのこの絵と巡り合えるとは。クレラー=ミュラーが所蔵していたんですね、と素直な驚きと感動。ぶっちゃっけ、スーラとルドンを目にすることができただけで、この企画展に来た甲斐がありました。って、ゴッホがないんですけど。

 「キュクロプス」で描かれているのは、ホメロスの『オデュッセイア』に登場する一つ目の人食い巨人ボリュフェモスだ。彼はポセイドンと海のニンフであるトーサの間に生まれた。ボリュフェモスはニンフ、ガラテアに恋して彼女の恋人を殺してしまう。不気味な一つ目巨人は、自分の恋するガラテアを遠くから覗いている。憧憬やらなんやら複雑な思いを込めて。

 最初、この絵を本とかで観たときはなんだこれ、みたいな感想を持ったが、そうしたギリシア神話の背景とかを知ったうえで観ていくと、別種の感想をもつようになる。異形なものの愛するものへの憧憬の眼差し、それはどこかで自分が他者とは異なるという強烈な自意識を抱えていたルドン自身の投影かもしれない。

 象徴主義作品を読み解くには、その背景となる文脈、物語性への理解が必要なのかもしれない。聖書や古典作品への理解が進むと、例えばラファエル前派とかモローの作品への理解が増すのかもしれない。

 

 さてとゴッホ作品。結局これが観たくて来たといっても過言でもないゴッホの点描的習作。

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『レストランの内部』(ゴッホ) クレラー=ミュラー美術館

 1887年頃の作品。ゴッホが点描法を実験したものだが、家具類は通常の筆遣いで描いているが、壁や床の点描はスーラの作品をかなり研究したようにも思える。ゴッホは絵画表現の中でも特に色彩表現を研究し、試行錯誤した人だったのということが、なんとなく伺える作品でもある。単なる激情型の人物、精神的不安定であのグルグル回る空や道、揺れる木々を描いたわけではなく、色彩表現の追求の中で描かれたものだったということがなんとなく理解できる。

 

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『種まく人』(ゴッホ) クレラー=ミュラー美術館

 ミレーを敬愛していたゴッホが、ミレーの『種まく人』を翻案したような作品。ゴッホは書簡集の中でこんなことを書いている。

「ミレーとレルミットの後に残っているものといえば・・・それは種まく人を、色彩を使って大きなサイズで描くことだ」

 ミレーの写実主義を色彩表現によって新たなものに再構築する、そういう試みだったのだろう。この作品は例えば日本の画家にも多大な影響を与えている。萬鉄五郎はこの太陽の表現をそのまま習作で何度か再現している。

 この作品を試しに数メートル離れて観てみると、趣がまったく変わってくる。それも5メートル以上、理想的には7メートル以上離れてみると網膜内でより美しい作品として再現されるような感じになった。そうか色彩表現の画家ゴッホの筆致、筆触分割は当然のごとく視覚混合を狙った試行錯誤の連続だったのかと。

 まあこれらがゴッホについていえば、常識の範疇なのか、あるいはニワカの自分の単なる誤解なのかはわからない。でも、そうやって離れて鑑賞してみるとたしかに糸杉はそれまで自分が見てきたものとは異なったもののようにも思えてきた。

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『夜のプロヴァンスの田舎道』(ゴッホ) クレラー=ミュラー美術館

 このおどろおどろした空と小径のグルグルとした表現、今までは精神を病んだゴッホの心象風景のように考えていたのだが、これが離れてみると全然別の者に見えてくる。目の中で再現される景色はけっして一様で同質のものではない、光の加減で、観る者の視点により様々に変化する。それを色彩によって表現するためのある種の技法表現だったのではないかと、まあ適当に考えている。いわば点描とは異なる、線描表現のような。なんかこうゴッホの表現について書かれた研究書とかを少しかじってみたい誘惑にもかられる。

 

 今回のゴッホ展、これまでのゴッホについての通り一辺倒な理解とは異なるものをなんとなく感じることができた。またゴッホ以外の作品もなかなか充実している点も含め、良質な展覧会だったと思う。出来ればもう一度、いやもう何度か足を運びたいと思う。でも、めちゃ込みなのがちょっと・・・・。