パッチギ!

f:id:tomzt:20210202191609j:plain

 この映画も話題になった作品なのだが観ていない作品。たまたまネットフリックスの配信映画を周遊していて見つけたので観た。

 1968年の京都を舞台にした在日朝鮮人と日本の高校生の交友を描いた青春映画。とはいえ今はどうかしらないが、在日朝鮮人の学校-朝鮮高校と日本の高校はだいたいにおいて対立している。自分は横浜に住んでいたが、朝鮮高校はヤンキーというかツッパリ系の頂点にあった。それに武闘派系の私立男子高校が対立していてみたいな図式がある。この映画ももろにその延長上で、朝鮮高校と日本の武闘派高校との対立が縦軸にある。

 これにただただ女子にモテたいだけで当時流行っていたグループサウンズのオックスのメンバーの髪型をマネするような軟派な高校生がからむ。毛沢東にかぶれている教師に命じられるままに朝鮮高校にサッカーの試合を申し込みに行く。そこで見かけた吹奏楽部の女子に一目ぼれして・・・・、というのが横軸。

 吹奏楽部の女の子がたまたまフルートで演奏していたのが、あの「イムジン河」。そこで軟派な高校生はフォーク・クルセーダーズの「イムジン河」を聴き、フォークにかぶれる。恋した女の子と近づくためにハングルを勉強して次第に女の子と親しくなっていく。

 まあアバウトはお話はこんな感じか。2004年製作、2005年公開の作品で時代的にいえば2002年日韓ワールドカップの後である。ワールドカップ共催で日韓の関係は良好な時期かというと、実はあのワールドカップの後から日韓関係はあまりよくない方向にいったような印象がある。日本側からすると単独開催を目指していたのに、韓国の横やりで共催になった。経済的には日本の方がはるかに上回るのに、韓国は共催という形で日本と同等の立場にあるかのようにふるまっていてけしからん。おまけに審判を買収して準決勝までいったが、あれは絶対にズルである。日本は韓国にワールドカップを盗まれたのだという感じである。

 これに対して韓国はといえば、国際サッカーでほとんど実績のない日本がワールドカップを単独開催するなど持って他、韓国が共催することでアジア初のワールドカップは成立する。結果も、日本はベスト16止まりに対して、韓国はベスト4まで進んだとまあこんなところか。

 日本からすると国力という点でもはるかに上にあるのに、韓国が同等のようにふるまうこと、サッカーにおいて上位にあることが気に入らない、もともと戦前は併合されていた国なのにという鬱屈した意識もあったのだろうか、ワールドカップ以降所謂嫌韓意識が次第に醸成されてきたように思う。

 そうした中で在日朝鮮人にスポットをあてた映画が『バッチギ!』ということになるんだろうか。だいたいにおいて在日朝鮮人にスポットをあてた映画にしろ文学にしろ、在日朝鮮人が強制的に日本に連れてこられ、つらい労働を強いられる。さらに戦前、戦後を通じて差別の中にある。それに対して日本人はそうした歴史に対しての半生もないままでいる。日本人が在日朝鮮人をテーマにした作品を作る場合には、朝鮮人への贖罪の意識にかられる部分が強くでる場合が多い。

 この映画もそうだし、最近の映画でいえば例えば『焼肉ドラゴン』なんかもそうかもしれない。差別と悲惨な境遇の中で健気に生きてきた在日朝鮮人とそれに対して無自覚な日本人という図式、ほぼこれが鉄板だ。

 自分も近代日本が朝鮮を侵略し、朝鮮人を搾取し差別の対象として扱ってきたことについてはそのとおりだと思う。日本は朝鮮に対して戦前の侵略行為に対しての反省と謝罪の意識をもって接するべきだとも思っている。それはドイツがユダヤ人や近隣諸国に対して戦後一貫してそうした態度で接していることと同じである。

 いつまで謝罪し続けるのだという異論が保守と称する人々の間から出てくる。しかし加害者の側がもう謝罪はおしまいというのは基本駄目なんだと思っている。被害者の側の記憶は再生産されていくのである。歴史的な贖罪はたかだか数10年で終わらせるわけにはいかないのだとも思う。

 しかしそれと作品世界とはまったく別ものである。差別される在日朝鮮人と日本人の贖罪、これだけで毎度毎度作られる作品はマンネリズムに堕していくのではないか。そうした紋切り型映画には正直うんざりしている部分がある。

 在日朝鮮人はミニマムな同胞的小世界を作り上げそこで完結した生活を送っている。彼らはたいていの場合、焼肉屋、ホルモン屋を営んでいるか屑鉄屋で凌いでいる。本当にそうか。

 自分は横浜で生まれ育った。当然のごとく身近にも在日の人は沢山いた。クラスにも1人や2人いたとおもう。そうした金田君や金山君たちとは普通に付き合っていたが、彼らの多くは自分なんかよりもはるかに裕福だったし、だいたい父親は普通のサラリーマンだったように記憶している。親しくなるにつれ、なんとなく相手が在日朝鮮人であることがわかっても、それで付き合い方が変わったこともないし、相手の家とかに普通に遊びに行っていた。

 高校時代、自分もあまり出来のよくない高校に行っていたこともあり、いちおう朝鮮高校とは対立関係にあった。とはいえ自分らはツッパリとは程遠いところにいたので、三菱マークの学生服の方とは関わらないようにしていた。チマチョゴリの制服を着た女子高生たちにもけっこう可愛い子がいたようにも思うが、やはり後々の面倒を考えると、近づくようなことはなかった。

 なにがいいたいかというと、確かに在日朝鮮人の方は大変な苦労をされているだろうし、日々差別を受けているのかもしれない。しかしそれだけではないのではないかと思う。特に戦後生まれの自分らからすれば、日本と朝鮮-侵略、在日-差別、強制みたいな図式だけではないのではと考えている。いつも差別とかそういう切り口だけで関係性をとらえるのはどうかとそんな思いがある。

 『パッチギ!』はよく出来た青春映画だと思う。1968年という学生運動ベトナム戦争といった激動の時代の様相をうまくとらえてもいる。若手俳優陣もなかなかに好演している。人も死ぬし男と女は寝る、そういう点ではやや凡庸だ。日本の高校生男子と朝鮮高校の女子との恋愛は周囲の環境という意味では、どことなく「ロミオとジュリエット」をトレースしているようだが、うまいこと描かれている。そしてなによりもハッピーエンドな部分がいい。

 もっと早くに観るべき映画だったとは思うが、今でもけっこう楽しめる作品だとは思う。しかしこれからもし在日朝鮮人を描く作品を観るとしたら、そろそろ紋切り型な図式から解放されてもいいかもしれない。

 今現在という点でいえば、文化面ではもはや韓国の方が日本よりもはるかに上という状況にあると思う。コンテンツ産業においては質という部分ではもう韓国のそれは日本を凌駕している。そうした中で日本に住み、自己の中に内なる日本を抱える在日朝鮮人の三世、四世の意識はより複層的なものがあるかもしれない。すでにそうしたものを抱合した作品はあるのかもしれないが、そういうものにも触れてみたい。