『蝸牛庵訪問記』読了

  仕事を辞めてから、少しずつパラパラと読んでいたものをようやく読み終えた。著者小林勇岩波書店の名物編集者にして、戦後は創業者岩波茂雄亡き後の岩波を牽引して、日本を代表する出版社にした著名な出版人である。

 一方、若い時から多くの作家、学者と交流をもち、特に老大家から可愛がられた希代の編集者でもある。中野好夫小林勇を評してこう語っている。

ずいぶんと多芸な故人だった。まず人物回想は彼の独壇場だった。ぼくらだ『ぢぢい殺し』などとからかったものだが、あの老大家たちのいきなり腹中にとびこむという妙技は、彼独特の至芸だった。露伴回想、茂吉回想、寅彦回想等々の諸名篇、すべてこの至芸から生まれた成果とみてよかろう。

  その「ぢぢい殺し」の最たるものがこの幸田露伴との交流を綴ったエッセイにも如実に現れている。しかし小林はただの「ぢぢい殺し」、「親父ころがし」ではない。彼の自伝などにもあるが、とにかく仕事を誠実にこなし、足繁く作家を訪問し、会話をかわす。とにかく労を惜しむことのない人だった。それが幸田露伴寺田寅彦斎藤茂吉らに可愛がられた理由だったと思う。

 本書は小林勇が編集者として幸田露伴と交流した歳月を、時系列で様々なエピソードを交えて描いたものだ。小林が訪問の度に綿密なメモをつけていたことが伺われる。彼は編集者として著者を訪問するときに多く記録をとっていたのかもしれない。

 小林が最初に露伴を訪問したのは1926年23歳のときである。露伴は1867年生まれでこの時59歳である。この年、露伴は長男の成豊を亡くしている。その後の交流を思うとき露伴にとっては小林が亡き長男の代わりになったのかもしれない。同様に小林にとっては学問、趣味、手習いなど博覧強記の露伴は父親的存在だったのかもしれない。

 ある意味では小林勇には実父とともに、出版人としての父親的存在で後には義理の父ともなった岩波茂雄、そして幸田露伴と三人の父親がいたのかもしれない。特に岩波や露伴との交流はただの上司と部下、作家と編集者の域をはるかに超えたものがある。小林勇には年長の者を魅了する独特の性質が備わっていたのだろう。小林は戦後も例えば時の権力者である首相吉田茂にも可愛がられたという。彼の人好きな性質は特異なものなのかもしれない。

 一方彼のその気風は、同世代、あるいは同僚からは嫉妬の対象であったかもしれない。戦前、岩波書店労働争議があったときの要求には、小林勇の即時解雇があったという。そのときの小林はまだ25歳、17歳で小僧として岩波に入店してまだ8年足らずである。ただしその前年に長田幹雄と二人で岩波文庫立ち上げに奔走し、これを成功させた彼は、十分に嫉妬の対象だったのかもしれない。

 本書の最後は昭和二十二年、露伴終焉の記が長く綴られている。そこにあるのは編集者として冷静に文豪の死を記録するという部分と、長く交流をもった大家との愛情あふれる記述である。そのなかに露伴小林勇を単なる編集者、若き友人、弟子以上の愛情を持っていたことが判る記述がある。長いがそのまま引用する。

 私は先生の左側に座っており、松下君(中央公論編集者)が右側に座っている。私は折々先生の痰をとった。夜が更けていったが、私と松下君 はだまって先生の手を握っていた。二時、だから厳密にいえば二十九日の午前二時である。先生が突然「小林はいるか」といった。私が、ここりおりますと答えるとそのまま先生は黙った。少したつと、また「小林はいるか」とはっきりいった。私は同じように、はい、ここにおりますと答えててをやや強く握った。一分もたたぬうちに先生はまた同じことをいった。そして私が同じことを答え、手をやや強く握ると安心したようにだまって眠る。このようなことが六、七回続いた。私がやや大きな声になって、「小林はここにおります。先生が帰れといっても帰りません」というが早いか、先生の顔に明らかに笑いが生じた。そして、丈夫なときのような調子で「けえってもいいよ」とはっきりいった。そして笑いが消えた。そのとき松下君が「松下もここにおります」といった。すると先生がうなずくようにして、「お前はしっかりしなければいけないよ」といった。