兄の入院

 午後、兄の入院の付き添い。埼玉医大総合医療センターへ。

 兄の病気は閉塞性動脈疾患で、すでに右足親指が壊死状態になる。今回は検査入院で血管造影検査等を行い、後日再入院してカテーテル等を行うのだとか。

 兄は糖尿、高血圧のうえ人工透析を受けている。そのうえで今回は血行障害で足の指先が壊死とか、もうとんでもない状況だ。ずっと単身で暮らしてきていて、自分ともほとんど連絡をとってなかった。10年ちょっと前に、定年と同時に緑内障の手術を受けるということで急に連絡してきた。聞けば借金もあり生活も破綻している状態だった。

 当時住んでいた横浜のアパートを訪ねるとゴミ屋敷状態。定年で無収入となりいきなり生活が覚束ない状況になっていた。そこで生活を立て直させるべく、また自分がすぐに行けるようにと住む家を探してやり引っ越させた。それ以後も何度か入退院を繰り返していてその都度面倒をみている。

 兄は自分にとって唯一の身内である。母とは幼い頃に生き別れ、父が亡くなってから35年になろうとしている。兄は中卒で仕事だけはずっと続けてきたが、金銭感覚が身に着かず、まあ一言でいえばだらしない生活を続けてきた。その結果が経済的な破綻と健康障害だ。

 身障者のカミさんと暮らす自分にとって、兄を全面的に面倒をみるということはまず不可能だとは思うが、なにかあればどうしても自分がある程度の世話をしなくてはならない。これまでにも事故や病気での入院のときにはほとんど自分が世話をしてきたし、もちろん医療費の面倒もみた。まあ唯一の肉親だから仕方がないといえばそのとおり。

 今回は検査入院なので多分5日から一週間で退院になる。おそらく日取りが決まったら迎えに行くだけでいいのだろうが、場合によっては医師の説明とかを一緒に聞かなくてはならないかもしれない。

 病院で必要なものは兄は自分で準備していたのだが、実際病室に入るとやれタオルがない、入浴用のシャンプーや石鹸がないと。さらに携帯の充電器も忘れてきたという。仕方なくいったん自分の家に帰ってタオル類をそろえ、それからホームセンターでシャンプー類を購入、最後に兄の家によって充電器を探し、再び病院に戻る。すでに7時を少し過ぎていたのでナースステーションに荷物を渡して帰る。こういうことが続いていく。

 埼玉医大総合センターには思い出がある。子どもが3歳くらいの時、当時住んでいたマンションの廊下で子どもが足を滑らせて鉄柵に顔面を強打。生えていた乳歯が歯茎にめり込んで大出血した。子どもは痛みで泣き止まない状態で、とにかく救急車を呼んだ。生まれて初めて救急車に乗った。そこで着いた先がこの病院だった。

 そのときは確かフロントに何か用事があって子どもと二人で出かけた。妻はまだ仕事から帰っていなかった。雨が強く降った後で外廊下はけっこう濡れていて、それで子どもは滑ったのだと思う。

 病院で応急処置をしてもらい、めり込んだ歯はまた生えてくるから大丈夫と医師から説明を受けた。ただし万が一めり込んだ歯が永久歯の元の部分を損傷させていたら、今後、永久歯は生えてこない。これは最悪の場合といわれた。女の子だし、いろいろと将来のことを考えて憂鬱にもなった。

 幸いなことに子どもの歯はすぐに生えてきたし、永久歯にも影響はなかった。歯並びもさほど問題になるようなこともなかった。子育てについていうと、いろいろと小さな失敗をしてきたし、いまだに思い出すことも多く、そのたびに子どもに悪いことをしたと思うことも多い。

 この事故のことも時々思い出すと切ない悲しい気分になる。もっと子どものことに注意してあげれば良かったという悔いのような気持ちだ。あのとき自分は子どもの手を引いて歩いていた。しかし子どもが足を滑らせたとき、子どもの手が自分の手がすり抜けるようにして離れた。スローモーションのようなあの感覚をなぜか鮮明に覚えている。二度と子どもの手を放すまいとそんなことを思った。

 帰るときに広い窓口と待合のロビーのスペースの前を通った。もう暗くて誰もいない。処置が終わり、子どもとベンチに座り妻が迎えに来るのを待っていたあのときのことを思い出した。子どもは自分の隣にチョコンと座っていた。もう痛みは少しひいていたのか、泣き疲れていたのか、そのときは泣きもせず大人しくしていた。妻がようやく来たときには笑顔をみせた。

 病院にまつわる記憶。たいていは不安なことや不幸なことである場合が多いけど、あのときの記憶は、子どもが無事育ったことで幾分か中和されているようにも思う。