一人称単数

 

一人称単数 (文春e-book)

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 一月くらい前に買って途中まで読んで放置していたのをようやく読み終えた。昔は新刊が出ると嬉々として読んだのだが、だんだんとそういうのが億劫になっている。なんていうか本をあまり読まなくなってしまった。どこかで書いたような気がするが、本が好きで、本屋が子ども時代から遊び場で、だから本を扱う仕事にずっとついてきた。大学卒業してからずっとだから40年になる。その最後になって、実は自分は本それほど好きじゃなかったのではという疑義である。

 もっとも本が読めなくなったのは、とにかく忙しい。仕事と家事、介護になんだかんだで忙殺されていて、以前のように本を読むためのまとまった時間が取れなくなった。以前は唯一本を読む時間だった通勤時間が、10年以上前から徒歩5分という職住近接になたこともある。さらにいえば目の問題、老眼や近視で活字を追うのがシンドクなってきているし、とにかくいつも目が疲れている。そうした諸々で集中できないということがある。

 村上春樹も以前は必ず新刊が出たら買う、すぐに読むだったのだが、次第にそのすぐ読むがダラダラと読むようになった。さらに買わないものも出てきた。村上春樹が父親のこと綴ったというエッセイも短いものなのにいまだに買っていない。短編集としては前作となる『女のいない男たち』も途中まで読んで放置したままだ。そのうち読みたいとは思う。

 そういう自分の読書事情からすれば今回の『一人称単数』も途中放置のままになってもおかしくはないのだが、今日は残っていた二篇を読み終えた。まあちょっと集中すればすぐに読めてしまう。それが短編小説のいいところだ。

 内容的にはというと、とにかく最初の一、二篇を読んだのが一ヶ月近く前のことなので、読後記憶がだいぶん薄れてきている。全体としてはというと、まあ村上春樹は幾つになっても村上春樹だということ。それは使い古された言い方でいえば、「虎の縞は洗っても落ちない」みたいなことだ。しかし70になろうかというのに、よくもまあ昔のスタイルのまま、30年、40年前の如くに同質の作品を書くことができることに、ある種の尊敬、畏怖の念すら覚える。

 村上春樹マーケティング能力が優れた作家だと思っている。相当前のことだが、本人が自分のコアの読者層を念頭に置いて執筆しているみたいなことを書いていたと記憶している。それはベストセラー作家になってからのことだが、だいたいにおいて5~10万くらいの読者層だったはずで、それがそのまま彼の新作の初刷り部数とシンクロしていた。

 今回の短編集はそういうコアな読者層、今それがどのくらいの数いるのかはわからない。多分1万前後ではないかと適当に思っているが、そういう昔からのコアな読者の趣向をそそるというか、くすぐるような短編集という風に勝手に思っている。実際、『石のまくら』や『クリーム』は本当に初期から中期にかけての短編集に入っていても違和感ないような気がする。

 そして『チャリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』や『ウィズ・ザ・ビートルズ』は村上春樹のジャズ志向や彼が同時代的に聴いたビートルズとその時代の雰囲気を描き出す。音楽もまた彼の小説世界を構成する要素であり、そこにゲッツでもビーチ・ボーイズでもない、パーカーとビートルズを持ってくる。古い読者層をくすぐるには十分な題材だ。

 さらに本作には「ヤクルト・スワローズ詩集」という懐かしいタイトルによるエッセイ風の野球、スワローズへの述懐らしきものが綴られる。「ヤクルト・スワローズ詩集」、これも古い読者には懐かしいワードだ。村上春樹糸井重里と共作した、交互に短いエッセイ、ショートショートを編んだ作品『夢であいましょう』に本当に短い掌編としてそれはあった。

スクイズ

「サードベースとホームベースのあいだに」

 と試合後多大杉選手は語った。

「北回帰線のようものがあって、

それが、

僕の足を止めたんです」

1981/9/2 *「ヤクルト・スワローズ詩集」 より

『夢で会いましょう』(冬樹社刊 1981年 P102)

  そしてもう一篇。

ヤクルト・スワローズ

 僕は時々、ヤクルト・スワローズを応援するために、もう地球を半周もしてしまったような気がするのだ。

 ほら、耳を澄ましてごらん。

 裏庭でペンギンが鳴いてるじゃないか。

1981/9/1 *「ヤクルト・スワローズ詩集」より

『夢で会いましょう』(冬樹社刊 1981年 P210)

 村上春樹がヤクルト・スワローズ ファンであることは有名だし、千駄ヶ谷でジャズ喫茶を開いていたことと神宮球場での思い出も短編やらエッセイやらに何度か書いてある。そして当時の、1970年代のヤクルトは本当に弱かった。そういうある種の自虐的スタンスとほのかなユーモア感覚が「ヤクルト・スワローズ詩集」にはある。だから、これはいつか小説のようなものになるのではないかと、そんなことを思っていた。それが実際このようにして小説のような、エッセイのようなスタイルで作品化された。

 多分、多分だが、「ヤクルト・スワローズ詩集」がどことなく心の中に忘れがたく残っている村上春樹ファンはかなりの数いるのではないかと思っている。そういう読者にはどうにもこの作品は嬉しいというか、普通に二やついてしまうようなものがあるのではと思う。そしてまたこうも思う。読者だけでなく、村上春樹もまた「ヤクルト・スワローズ詩集」という架空の作品けっして忘れることなく、どこかに置いていたのだと。

 さらに『品川猿の告白』も「品川猿」という言葉にすぐに反応した。ええと短編小説であったよな、名前泥棒の言葉をしゃべる猿の話。で、本棚から本を取り出して確認する。はい、『東京奇譚集』の中にありました「品川猿」ですね。そこで久々にそっちの方も読んでみた。しかし、この話自体はまったく内容を覚えていなかった。ただただ「品川猿」という言葉だけを覚えていた。

 作品的には「告白」の方が完成度が増している。いずれにしろ抽象的、高度に象徴性が高い作品なのだが、読後感を含めて「告白」の方が完成度が高いように思った。前作には無理やりユーモラスなドタバタと、名前を奪われた女性の不幸との対峙がうまく消化されていないような気がした。

 作品自体としては『謝肉祭』が一番面白く、また『ねじまき鳥』以降の村上春樹のテーマに沿っているようにも感じられた。この作品は長編小説に化ける可能性があるかもしれないと、そんな風にも思ったのだが、最後に学生時代のエピソードを入れることで作品的な広がりを封じてしまったようにも感じられた。村上春樹も少々老いたのかもしれないなとそんな気持ちになった。

 ラストの『一人称単数』は不条理な毀損と、別の場所、別の時間に、もう一人の自分が何かを酷く傷つけたかもしれないという可能性。これもまた『ねじまき鳥』以降の彼のテーマのようにも思うが、この話は多分長編に展開するのは困難かもしれない。まあ適当に、本当に適当にそんなことを思っている。

 最後に思うけど、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」は本当にある種のリアリティ、本当にそんな演奏があってもおかしくないし、パーカーがジョビンの曲を吹く音色が聴こえてきそうな気がする。これがコルトレーン・プレイズ・ボサやアイラー・プレイズ~ではありえないなともおもう。最も長生きしてればそういうのもあったかもしれない。我々はあのファラオ・サンダースが70~80年代に堂々とボサノヴァを吹いちゃうことも知っているのだから。