村上春樹がテレビの中でしゃべっていることについて


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およそマスコミへの露出が少ない村上春樹がテレビの中で話している。そのことが今回の報道におけるある意味一番のサプライズだった。彼の肉声についていえば、確か「夢のサーフシティ」かなにかについていた付録のCDの中に安西水丸との対談が収録されていて、「ふ〜ん、こういう声なんだ」とか思ったのを覚えている。だからテレビから流れてくる彼の英語のスピーチについても、「そうそうこの声、この声」みたいな感じがあった。彼の英語についていえば、発音はそれほどよくないな〜とか、それでも身振り手振りをまじえての話にはさっそうたるものを感じた。
実際、例の中川元財務相の酩酊記者会見とほぼ同時に報道されることが多かったので、その対比からか、彼の堂々たる英語でのスピーチに賛意を寄せる声が多いようだった。会社で下のものから「動く村上春樹をはじめてみましたよ」と話かけられて苦笑した。ある意味私も「動く村上春樹」は初めてなのかもしれない。よくあちこちで語られることだけど、「動く村上春樹」は羽田孜元首相とよく似ていると私も感じていたので、それを口にした。相手も「確かに似ていますね」と笑っていた。
村上春樹の今回のエルサレム賞受賞のニュースはイスラエルパレスチナに侵攻中であることから、きわめて政治的な文脈の中で語られることがある。村上自身がそれを相当に意識したうえでの授賞式出席であり、受賞のスピーチだったのだろうと、まあテレビのニュースを見ての感想だ。スピーチの全文が掲載されているところがないかとググってみたが今のところはまだないようだった。英文の抄録としてはこれが一番長いもののようであり、多くの方が引用しているようだった。
村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」
で講演要旨については共同通信が配信しているようなのでそれをそのまま引用しておく。

 一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。
 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
 一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。
                 2009/02/16 10:06   共同通信

ある意味村上春樹らしい比喩に富んだ内容だと思う。イスラエルに来るということ自体が政治的プロバガンダに利用されてしまうであろうことへの危惧、その中で精一杯戦争に対する意義申し立てを行おうとする作家の心意気のようなものを感じさせる話ではある。もっとストレートにイスラエルパレスチナへの暴力的侵攻へのプロテスタントを表明することも可能だったかもしれない。なぜあのようにカモフラージュした言い回しをしなければならないのかという意見もあるだろう。
パレスチナ、対近隣中東国家に対してはきわめて直裁的な暴力行動に出る武装国家でありながら、内政的には民主国家であるというダブルスタンダードな国イスラエルのある種の民主的、文化的ショーという側面ありありの受賞式である。どう転んでも利用されているだけだという意見もある。授賞式でイスラエルに対して批判的言説を述べる受賞者という設定自体がイスラエルの民主的な寛容さを証明しているというような話もチラホラ聞こえてきそうだ。こうした寛容さが野蛮なアラブ諸国にはありますか?みたいな感じかな。
まあどうあれ今回のスピーチは作家の文学的スピーチではないということだ。村上が使ったメタファーとしての「壁」はまんま個人に対峙する制度でありシステムであり、市場であり社会であり共同体であり共同幻想であり国家であり・・・・。まあそいうことでしょう。と、それは古くからの極めて古典的なテーマでもある。村上春樹は確か「羊をめぐる冒険」を書いたときのインタビューで個人を阻害していく幻想、あるいは国家的なるものがどういうものかを問いかけていくみたいなことを話していたような気がする。念頭にあるのは彼が同時代的に体験した全共闘運動とその荒廃、それに対する問いかけであり個人的な総括でもあったのだと思う。そういう意味では村上春樹のテーマはある意味一貫しているのかもしれないとは思った。
個人と制度、システムとの対峙というのは彼の根源的なテーマなんだろう、だからなんとなくだけどあのスピーチ内容がまったく違和感なく理解できた。制度、システムによって阻害されていく個々人に対しての徹底した共感、それを改めて村上春樹は宣言したということなんだろう。それはある意味で彼が「ねじまき鳥」以降、社会にコミットするという、それまでのある種の引きこもり的な個人の内面性重視の姿勢からの宗旨替え以来のテーマの流れなんだろうとも思う。
もう一つスピーチから思ったこと、「壁」という懐かしい言葉が使われたことだ。「壁」は彼にとっては様々なメタファーとして使われている。今回は個人に対峙して抑圧する制度やシステム。より直接的には国家的暴力としてだ。ただ古い読者としては「壁」という言葉を『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の懐かしいそれとの連関で想起してしまう。でもあの「壁」はたぶん社会と対峙する個人が社会を遮断するための装置だったように記憶している。いや私はそう読んだような気がする。
最終章で「世界の終わり」からの脱出を提案した影に対して僕は「世界の終わり」に居残ることを告げる。

影はため息をついた。そしてもう一度空を仰いだ。
「君は彼女の心をみつけたんだな?そして彼女と二人で森で暮らすことに決め、俺を追い払うつもなんだろう?」
「もう一度言うけれど、それだけじゃないんだ」と僕は言った。「僕はこの街をつくりだしたのがいったい何ものかということを発見したんだ。だから僕はここに残る義務があり、責任があるんだ。君はこの町を作りだしたものが何ものなのか知りたくないのか?」
「知りたくないね」と影は言った。「俺は既にそれを知っているからだ。そんなことは前から知っていたんだ。この街を作ったのは君自身だよ。君が何もかもを作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。このたまりも、この雪もだ。それくらいのことは俺にもわかるんだよ」
「じゃあ何故それをもっと早く教えてくれなかったんだ?」
「君に教えれば君はここに残ったじゃないか。俺は君をどうしても外につれだしたかったんだ。君の生きるべき世界はちゃんと外にあるんだ」
影は雪の中に座りこんで、頭を何度か左右に振った。
「しかしそれをみつけてしまったあとで君はもう俺の言うことをきかないだろう」
「僕には僕の責任があるんだ」と僕は言った。「僕は自分の勝手に作り出した人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果たさなくてちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で川は僕自身の中で流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド] P616

かっては壁は村上春樹の内面世界の中にあった。しかし今や壁は外部にあり、村上春樹はそれと対峙する個人の側にあって責任を果たそうとしている。