新型コロナ禍において想像力が問われている

 昨日の朝日新聞の朝刊文化・文芸欄に藤原辰史が寄稿した「人文知を軽んじた失政」という一文が興味深い。藤原辰史は以前から気になる学者であり中公新書トラクターの世界史―人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』、岩波新書『給食の歴史』など興味を引く書籍を書いている。専門は農業史、環境史だという。

 この一文については朝日の有料サイトにもアップされている。

 藤原は現在のコロナ禍で進行中の政治的失敗は、経済成長や反動的な戦前の教育勅語的生心主義に重きをおき、人文学の知識や歴史に学ぶことを排除してきたことによるとする。経済合理性や即効的な費用対効果を重視する思考は、感染爆発による危機に遭遇して、まったく解決策を示すことなく、対処療法に埋没している。そのなかで「人文学の言葉や想像力が、人びとの思考の糧になっている」として、危機の時代に人文学の復権の必要性を強く主張している。

 以下、メモとして引用する。

パンデミックでいっそう声明の危機にさらされている社会的弱者は、災厄の終息後も生活の闘いが続く。誰かが宣言すれば何かが終わる、というイベント中心的歴史教育は、二つの大戦後の飢餓にせよ、ベトナム戦争後の枯葉剤の後遺症にせよ、戦後こそ庶民の戦場であったという事実をすっかり忘れさせた。 

  そうなのだ、戦争の被害者である庶民にとっての戦場は生活の場、日常そのものなのである。戦後の飢餓や弱肉強食的な暴力の横行は復興までの長い途上の間続いていくのだ。

 封鎖化の武漢で日記を発表し、精神的支えとなった作家の方方(ファンファン)は、「一つの国が文明国家であるかどうかの基準は(中略)ただ一つしかない。それは弱者に接する態度である」と述べたが、これは「弱者に愛の手を」的な偽善を意味しない。現在ニューヨーク市保健局が毎日更新する感染地図は、テレワーク可能な人の職場が集中するマンハッタンの感染率が激減する一方で、在宅勤務不可能な人びとが多く住む地区の感染率が増加していることを示している。

 これが意味するのは、在宅勤務が可能な仕事は、弱者」の低賃金労働に支えられることによってしか成立しないという厳粛な事実だ。今の政治が医療現場や生活現場にピントを合わせられないのは、世の仕組みを見据える眼差しが欠如しているからである。 

 今、日本でも政府の要請により企業も出勤率の7割〜8割削減すべく在宅勤務、テレワークが大企業を中心に広く行われている。すでに丸の内の昼間の人口はかなり減少しているという報道がある。一方で医療現場では1日12時間以上もの過酷な勤務が強いられ、医師や看護師は感染リスクに晒されながら、感染者への対応に従事している。

 さらにいえば物流現場や流通現場の労働者は、まさに現場でモノを扱うのが仕事なため、最初から在宅での勤務は不可能な状態にあり、やはり感染リスクを抱えながら日々会社に行き仕事をこなしている。

 またライフラインに直結するような公務員も日々、窓口を含め現場での仕事をしている。さらにいえばゴミ収集などのあえて言えば底辺的な仕事に従事する労働者も決して休めない。彼らはゴミという汚染物を生身で扱うことを余儀なくされる人々でもあり、日常的な労働が感染との闘いでもあるのだ。

 感染爆発に襲われた社会では、新たな階級社会の存在を可視化させている。それはまさしく藤原が指摘したように「在宅勤務が可能な仕事は、『弱者』の低賃金労働に支えられることによってしか成立しないという厳粛な事実」なのである。

 在宅勤務、テレワークを進める会社の人々は口々に、会社に来ることによって感染リスクが高まる。これは従業員の生命を守るための取組みであると言う。しかし彼らはテレワークを進めても仕事自体が止まらないことをあらかじめ知っている。それは長年の間、経済合理性とコストカットを追求し、長年の間用意周到に進めてきたアウトソーシングによって、現業部門のほとんどは外注化しているのである。

 「これは従業員の生命を守る取組み」でありつつ、外部の労働者の生命が脅かされることについては、目と耳を閉ざしているのである。それは仕方がないこと、それぞれの立場で、役割が違うのだから致し方ないことであると。そうやって現場労働、現業から切り離された人々は、現場を知らないで仕事を回していくことになる。かって大ヒットした映画ではないが、彼らにとっては「仕事はデスクで、会議室でおきている」のであって、決して現場で遂行されているのではないということになる。

 そうした状態が連綿と続いてきた果てには、現場への想像力が欠如した机上での業務、仕事が横行していく。端末画面の数字や言葉、フローチャートがリアルな仕事の記号として流通していく。次第に現場で汗を流す人々の存在は見えなくなっていくのだ。

 しかも当然のごとく現場から離れた人々は社会の階層にあっては上部に位置し、賃金も比較的良い。それに対して現場労働は社会的階層の下位にあり相対的に賃金も安くなる。ネットワークの発達により、端末を通じて情報が流通するなかで、リアルな商品、現物の取引よりも、それらを動きを情報化し、その情報を管理することが大きなビジネスとなってきている。ここには情報の管理、流通を支配する層と、その情報の一次的な部分としてのリアルなモノを担う下位層に二極化されていく。

 感染症のバンデミックにあって、情報を管理する側がテレワークにより、どこででも仕事ができるが、現場労働はまさに現場に縛りつけられながら、感染リスクを背負いながら業務に従事しなければならない。

 感染症はそうした社会の実相を可視化させた。しかし多分に視えてきたものから目を塞ぎ、現実を直視しないということが日常的に行われているのだとは思う。今、そうした日常的に視えないものへの想像力を研ぎ澄ませ、社会の実相に向ける眼差しが求められているのかもしれない。