子どもの卒業、親の子育ての一里塚

 子どもが今日、学校を卒業した。

 新型コロナウイルスのため講堂に卒業生を集めた大掛かりな卒業式は中止。学生が学部単位で時間を決め、教室か研究室で担当の教官から卒業学位記を受け取るという簡素なもので、親は原則として学内に立ち入りできないというものだった。

 当初は卒業式自体すべて中止になる可能性もあったのだが、小規模でもこうした形をとったため、女子学生は予約しておいた袴を着ることができるということになった。しかしすべての卒業行事を中止した大学もあるようで、そうなると貸衣装の業者はキャンセルの嵐となっているようだ。大学生協に務める知人に聞くと、キャンセルがかなりの数にのぼり、返金処理とかが半端ないという。

 うちの子の場合は、とりあえず袴を着ることになった。まあ記念ということもあるし、多分一生で一度のことだからということもある。学校に10時に行くことになっているので、着付けやヘアメイクの時間を逆算して、朝の7時に呉服屋に向かう。家を出るのは6時である。親は卒業式に出ることもないので、ただただ子どもを呉服店に、それから学校まで送り届けるだけということ。そこまでするかというと、まあ基本親バカだからしょうがない。子どもに関してはもうこれはどうしようもないということ。

 朝7時台、裏木戸を通って入った呉服店内である。袴はレンタル、着物は成人のときにこの呉服店で買ったもの。着付けとヘアメイクは別室で、そこには男性は入れないので、こっちはただひたすら待つだけ。その後で写真撮影する。基本料金では写真は1枚、追加は1枚6000円也である。多分、一番標準的な3カットのものにする。聞くと6カットまでいけるらしいのだが、そこまでするかとなると逡巡する。成人式の時にはアルバム仕立てにし、撮った写真を全部DVDに焼いてもらったところ、とんでもない顎になったことが頭の片隅にある。

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 学校にはほぼ定刻に着いた。正門前で子どもを降ろし、近くのコイン駐車場に車を止めてから、妻の車椅子をおして学校のある街を散歩する。子どもの用事が全部すんだら、また子どもを拾って呉服屋に戻る。袴は返却し、着物はそのままクリーニングに出す。多分、その後着物を着る機会なんておそらく当分ないだろうとは思う。

 この4年間は多分これまでの子どもの学校の期間ということでいうと、感覚的には一番短い感じがした。本当にあっとういう間のことだった。子どもは学内でのサークルとかに入ってもいなかったので、学校の友人も少ない。大学に対しての思い入れもさほどないようだが、それでもこじんまりとした学校をけっして嫌いでもないようだったし、4年間多分社会に出てもまったく役立たないような学問をまあまあ気に入っていたようだ。

 そして中学時代からの吹奏楽を学外のサークルで4年間続けた。親も学祭だの定演だのといった演奏会にはほとんど足を運んだ。継続は力なりだ。けっして楽器が上手い訳でもないのだが、辞めることはなかった。

 学校を卒業しまがりなりにも4月からは社会人となる。まだまだ結婚だのなんのと世話を焼く機会は沢山あるのだろうけど、子育てという部分ではある種の一里塚を超えた思いもある。子どもの学業の卒業と親の子育ての卒業だ。

 一人っ子だったので、思い切り甘やかしてしまった。とんでもない我儘である。まあしょうがない。子育てはリセットできるものでもない。ずっと共稼ぎだったので、1歳になる前から保育園に入れた。自分も妻も正社員だったのと、仕事の面であまり融通がきかなかったこともあり、かなりの長時間保育だった。朝8時に保育園に送っていき、帰りは基本7時まで預かってくれるのだが、延長保育で8時までは大丈夫なところだったので、当然のごとく毎日8時まで預かってもらった。時には8時をだいぶ回ることもあった。

 うちの子どもの長時間保育は保育園の中でも多分一番だったし、親御さんたちの間でも有名だったみたいだ。そういう意味では子どもには申し訳ない思いもある。とはいえ家事労働は不払い労働、親は社会に出て金を引っ張ってくる、そのことでそれなりの余裕のある生活を送りたいみたいな意識もあったし、自分も妻のそこそこ責任ある立場だったので、これは致し方ないところもあった。

 幸いなことに預かってくれた保育園は親切の認可私立保育園で、園長先生を始め保育に情熱をもっているうえ、それぞれの親の事情にも理解をしめしてくれた。この保育園に預けていれば安心という思いもあり、少し甘えすぎたかと思うくらいに利用させていただいた。

 子どもの送り迎えを妻と分担していたのだが、自分の方が多少仕事に融通が効くこともあり、多分6対4くらいの割合で自分の方が多かったと思う。子どもの送り迎えでいろんな思い出がある。雪が降ってかなり積もった日、マンションの機械式駐車場が雪でストップしたため、子どもを自転車に乗せて、自転車を押して送って行ったこともある。途中で二回ほど転びかけた。子どもはスカートだっただろうか、寒かっただろうにと思うが、泣きもせず我慢してくれていた。

 お迎えに行くと、いつもニコニコとして出迎えてくれた。ときには保育士の先生の膝に乗って、先生が読んでくれる絵本をじっと見ていた。帰りに自転車に乗せて二人で大きな声で歌を歌いながら帰ったこともある。本当に可愛い子どもだった。

 子どもが小学校に上がると学童問題が生じる。それまで7時とか8時まで預かってくれる保育園に変わって学童保育となると、たいていは6時までとなる。そのへんに頭を悩ませる頃、保育園は学童保育も併設して行うようになったので、迷わずお世話になることにした。子どもが小学校の後、そのまま学童に通うお友達と歩いて通園した。親は安心して仕事をすることができた。

 転機となったのは、母親が脳梗塞で倒れた時だ。子どもは多分小学二年生だっただろうか。自分が迎えに行き家で子どもと過ごしていたとき、妻の会社の同僚から、妻が仕事の後食事をしている時に倒れて意識不明だという連絡が入った。気が動転しながら身支度をして、子どもを連れて都内の病院まで行った。多分一過性のことかなにかだろうと簡単に考えていたのだが、病院に着くと妻は集中治療率にいた。脳梗塞とくも膜下に出血があり、かなり大きな梗塞巣だという。妻は文字通り生死を彷徨っていた。

 医師からは状態がよくない。回復してもよくて車椅子、場合によっては寝たきりの状態のままといわれた。呆然としてもう何をしていいのかわからなかった。子どもは待合室で借りた毛布をかけたまま寝ていた。明け方まだ暗い病院の中庭に出た時、涙が止まらなくなった。ほとんど号泣状態だった。どうしていいかわからない状況で、心理的にたぶんかなりヤバいところに追い詰められていたのだと思う。

 入院二日目には脳浮腫で頭蓋を外して脳の腫れを逃す解頭術を受けた。その時が多分生死の境目という点では一番危機的な状況の頃だった。それからじょじょに持ち直し、その病院には二ヶ月近く入院していた。仕事を終えると子どもを迎えに行き、それから都内の病院に見舞いに行くという日々が続いた。

 保育園の先生が心配してくれていて、週に一度くらいだったか学童で9時近くまで預かってくれたこともあった。妻のママ友が家で子どもを預かってくれたこともあった。多くの人の善意があり、ギリギリのところでなんとか踏みとどまることができた。

 それからは長く続く子育てと介護の日々が続いた。

 幸いなことに、妻は寝たきりのような状態にはならなかった。左上肢機能、左下賜機能全廃、いわゆる片麻痺となった。前頭葉から右側頭葉にかけて大きな梗塞巣があるため、注意障害がある。いわゆる高次機能障害というやつだ。でも、転院した病院は国立の急性期リハビリでは定評があるところだったこともあり、PT、OPにより、よくて車椅子だったのが、短い距離であればつたい歩きや4点杖で歩くことができるようになった。OPの先生と一緒に料理を作ったという話を嬉しく聞いたことがあった。

 妻が頭蓋骨の形成手術を受け、リハビリ病院に都合で6ヶ月近く過ごした。その間、仕事、子育て、見舞いという日々を過ごした。退院してすぐの頃はまだ下の世話なども必要だったし、今、思うとよく凌いでこれたと思う。

 子どもにとっても小学生の低学年の頃、大好きだった母親がいきなり障害者となってしまい、最初の頃は涎を垂らし、食べるその場から口からだしてしまうような状態で、とんちんかんなことばかりを口にするのである。相当なショックだったのではないかと思う。

 それでも子どもはかなりひねくれた部分もあるにはあるが、思いの外まっすぐに育った。いわゆるグレたりということもなかったと思う。車椅子に乗った母親を恥いるようなこともなかったし、親子三人で出かけることを嫌がることもなかった。

 自分は、子どもの頃かなり貧乏な家に育った。父と母は自分が幼い頃に離婚しているので、自分には母親の記憶がない。父と祖母と兄との4人暮らしだった。父は自分が小学校に上がるか上がらないの頃に事業に失敗した。おそらく借金もあったのかもしれないが、4人で六畳一間暮らしというの何年も続けた。その家は外見もかなりのボロ屋で、学校の友達とかにそれを見られるのがとても嫌だった。

 父はまあ普通に肉体労働をし、兄も中学を出て仕事をしていた。二人の働き手がいるのだから家計は上向くかというと、そういうこともなかった。祖母がとんでもないくらいの浪費家だったこともあり、いつも金のない生活を続いた。

 貧乏暮らしが長かったからか、自分が所帯をもった時には家族に金のことで苦労をさせない、子どもに貧乏をさせないとどこかで誓ったいたところがある。だからこそ、夫婦共稼ぎに拘ったのであり、結婚してすぐにマンションを購入し、それから7年くらいで一軒家を建てた。それからすぐに妻が倒れたけれど、その家を売り借金を返した残りで今の家を買った。なので家の借金もない。

 子育てと妻の介護との両立という点では、かなりあぶない部分もあったが、職場と自宅を近接させたこともあり、なんとか凌いでこれた。いくつかの幸運もあり、リストラとかいう目にもあわず還暦を過ぎてもまだ仕事をありついている。日本経済が一気に下降化した例の失われた30年をどうにかすりぬけて、気がつけば年齢の割りには比較的収入の良い部類の方ある。まあこれは自分の収入がいいというより、周りの落ち込みが激しかったというだけのことだ。

 そういう点では持ち家もあり、借金もなく、金銭面での苦労を子どもにさせることだけはしてこなかった。子どもを私立の高校から私立の大学に通わせることができた。高校のことでいえば、入学が決まってから学食がないことに初めて気づいて愕然とした記憶がある。三年間弁当を作り続けなくてはいけなくなったからだ。毎日、同じような弁当をひたすら作った。

 子どもは特に文句をいうこともなく弁当はきちんと残さず食べた。ただしあまりにも冷凍食品を続けたせいか、だいぶ経ってから冷凍食品はほぼ一生分食べたから、もういらないと言っていた。知るかとだけ答えたけど。

 吹奏楽部だけは懲りずに続けた。そのおかげでほとんど勉強らしい勉強をしない。高校3年の秋まで部活までやり、慌てて強制的に予備校に通わせた。親的にいかせたい学校は全部E判定という状態のまま受験を迎え、幸いとまぐれで今の学校にだけ受かった。そこももちろんE判定だったのだが。

 子どものこと、障害をもった妻のこと、思い出せば様々な記憶が蘇ってくる。このダイアリーでも妻が倒れてすぐの頃の危機迫るような日々のことがそのまま残っている。そのようにして20数年の日々を過ごしてきた。

 取り敢えず、あくまで取り敢えずなのだろうとは思うけど、今日子どもが学校を卒業し、親は子育ての一里塚を卒業した。

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