桜を見る会について

 森友・加計学園の事件の頃から、いやそれ以前の共謀罪や安保法案の頃から、安倍政権の無茶苦茶ぶりには相当な危機感を持っている。しかし、日銀資金と年金資金をジャブジャブと注ぎ込んで株価を支えることで、見せかけの好景気を演出する経済政策(政策といえるか)、三本の矢、「一億総活躍社会」などのスローガン主義でやってる感を示すパフォーマンス主義などなどにより、選挙に勝ち続けてきている。

 その本質は人事を掌握することで官僚組織を意のままにしていること、マスコミとの癒着による世論誘導が総てだと思っている。政財官とマスコミが癒着すれば民主主義は崩壊するが、権力側はもう怖いものなしである。テレビでは政府に批判的な言説は鳴りを潜める。そして低劣なバラエティ番組により国民は思考能力を低下させていく。

 そうした状況下で政権は恣意的な政治と自分の支持基盤である大企業や富裕層へのあからさまな利益誘導を行っている。

 地球儀を俯瞰する外交をうたっているが、安倍が主導する外交政策で成功したものはほとんどない。アメリカとの良好な関係だけが命綱となっているが、それもほとんど隷属化の産物である。

 そうした状況の中、毎年行われる総理主宰の桜を見る会に対して、公金を使った選挙運動、後援会活動ではないかという疑義を国会で取り上げてきたのは日本共産党である。そして11月8日の予算委員会において、来年度会の予算が倍増以上となっていることから、田村智子議員が質問を行い、一気に様々な疑惑が浮かんできた。


「桜を見る会」が首相後援会の恒例行事に

桜を見る会 - Wikipedia

 当初、官邸でのぶら下がりで10数分の時間を取ってぶら下がり会見を行った安倍晋三はその後国会から逃げまくっている。予算委員会出席については国会が決めることとしながらも、与党自民党が開催と総理出席を拒否したままである。

 さらに総理不在の国会や官僚を呼んで行われる野党合同ヒアリングでは、官僚たちがおよそ理由にもならない言い訳に終始している。出席者の名簿は会の終了後すぐに廃棄されているとか、プライバシー保護を理由にして公表を拒絶している。

 さらに出席者の数が当初1万人程度であったのが、第二次安倍政権下で毎年膨れ上がり、2019年には1万8000人にまでなっている。その多くが安倍晋三の後援会や自民党の支持者たちである。さらにそこにはヤクザのようや反社会勢力やマルチ商法の関係者まで含まれているのだ。

 そうした参加者を誰が呼んだかについて官僚たちは、頑なに口をつぐみ、参加者名簿は会の終了後に遅滞なく廃棄したを繰り返している。さらに電子データについても削除したとし、とにかく安倍晋三との関連性に対して徹底的に否定し続けている。

 しかし、森友・加計問題でも多くの人が口にしたように、前例踏襲をモットーとする官僚組織が公文書を簡単に廃棄などする訳もなく、ようは政権にとって都合の悪い証拠を隠滅しているに過ぎないことは自明なのである。今回も招待名簿を会の終了後にすぐ廃棄などは常識的にあり得ないことだ。

 これも多くの人が言っていることだが、年賀状の送り先リストを毎年送付後に廃棄するようなことはあり得ない。重複や喪中、疎遠になった者などを個々に削除したり、新たに追加するためにも名簿=リストは重要なのである。

 そんな中、宮城県選出の立憲民主党の石垣のりこ氏が、ヒアリングに際して総理府のサーバーの仕様書、契約書、メールサーバーの運用マニュアル等の提出を要求した。それに対して官僚が出してきたのは数ページのアウトルックのマニュアルだったというのは、もうこの事件に対する官僚組織の姿勢を象徴しているように見える。

 要は官僚たちは、ただひたすら安倍晋三を守ることだけに注力しているのである。その先にあるのは、栄転と高額な退職金と優雅な天下り生活だ。人事を握られた官僚たちの哀れさ。でも、将来の悠々自適な生活が待っているとすれば、天下国家などは二の次ということだ。こんな官僚たちによって運営される国が滅びていくだろうことは自明だと思う。とはいえ、マスコミから流される自民党以外にない、野党よりはマシという言説を信じ込み、日々流れてくる下らないバラエティによって思考能力を奪われた国民たちにとっては、選挙というのものは棄権するか、近所の有力者の絡みで依頼される政権等以外にはないのだ。

 安倍政権下で繰り広げられるこうした腐敗と不公正はそのままこの国の現実の鏡でもある。かって経済一流、政治二流とか、政治家が愚昧でも官僚たちが優秀なので、この国の将来は安泰という言説が喧伝されたことがある。今やすべてにおいて三等国家となったこの国には明日なんて絶対にないという頭を抱える現実がそこにある。

 人生の末期にあって、こんな現実が到来するのは辛い。そしてこれからこの国を生きていく若い世代に対して申し訳ない気もちが募る日々だ。