近代美術館へ行く

 都内で会議終了後、久々に国立近代美術館MOMATへ行ってきた。多分、4月に河合玉堂の「行く春」を観に来て以来だ。昨年までだと、ここには多い時だと月に2回くらい、少なくとも隔月くらいでは通っているので、今年は頻度が落ちている。都内に出るのが少なくなっているかというと、そうでもない。けっこう忙しい日々と年齢のせいとかもあるのかもしれない。

 こうなると早くリタイアしたいなと思ったりもするし、少なくとももう少し仕事が薬になってくれればいいと思ったりもする。仕事とは別の意味で、家事やら介護といった部分も年齢のせいかテキパキとこなせなくなってきているのもあるんだろう。もともと仕事とオフの切り替えが下手な人間だというのもある。ダラダラと仕事をするのがずっと癖になっている。もっとも人より労働時間が長い、オンオフ関係なく仕事をしているということで仕事のアドバンスを得てきた部分もあるにはある。

 完全な仕事人間としえ40年やってきた。多分だからこそ、還暦過ぎても仕事がある。小さい会社だけど切り盛りする立場にいられる。多分にそこそこの収入もあるということなので、これは致し方ないのかも。自分の時間を売って金を得ている。労働者の疎外状況っていうやつか。

 MOMATでは高畑勲の回顧展をやっているのだが、そちらはパスする。その後に友人と会う約束があったので、1時間半くらいしか時間がなかったから。さらにいえば、常設展の方にお目当てがあったから。それは土田麦僊の「湯女」。

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土田麦僊「湯女」

 ゴーギャンの影響が濃いとされる絵だけど、それは色面の感じなのだろうか。同じ麦僊の「島の女」はなんとなくゴーギャンという感じがするが、この「湯女」に関しては様々な要素が組み入れられていると思う。松の描写は明らかに安土桃山時代の屏風絵、「洛中洛外図」のような表現だ。その合間に見える湯女の官能的な描写は明らかにルノワールと思える。

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「湯女」

 しかしこの絵には、画家の視点としてはありえない高さからの俯瞰による覗き見のような雰囲気がある。それがこの絵にあるどことなくエロチックで通俗性と絵画表現がぎりぎりのところで拮抗しているようにも思える。

 この絵は6月14日から8月18日までの展示という。日本画は長期に展示できないということもあるのだろうが、こういうのはうかうかしていると展示が終わっていたなんていうことも多々ある。そして次に観ることが出来るのは半年後とか1年後みたいなことにもなる。以前、この絵を観れたのも偶然だったのだが、それは一つの行幸みたいなものかもしれなかった。

 できれば、期間中にもう一度この絵を観に来たいと思う。

 その他では4階のハイライトの洋画コーナーにルソーの「第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神」があって、こちらも久しぶりに観た。なんていうのだろう、黄金比率の構図のお手本みたいな感じがする。

 そのほかでは萬鉄五郎の「裸婦-頬杖の人」は多分初めて観たのではないかと思う。

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「裸婦-頬杖の人」(萬鉄五郎

 解説にはマティスの影響化の作品とある。確かにデフォルメされた女性や背景などマティスの表現ではある。しかしずいぶんと粗野なマティスだなと思ったりもする。萬鉄五郎は海外の技術、表現をどんどんと取り入れて、そこからオリジナリティを出すべき努力した画家なんだとは思う。ゴッホであったり、マティス等のフォーヴィズム、そしてピカソキュビスムまで。

 近代日本洋画はずっと海外の技術を取り入れ、習作を描き続けてきた。黒田清輝しかりであり、この萬鉄五郎しかりである。自分的にはおそらく昭和の頃からじょじょに日本洋画のオリジナリティが獲得されてきたのではないかと、なんとなくそんなことを考えている。