スタンリー・ドーネン死去

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 これもTwitterのタイムラインに流れてきた。

 オールド・ネームである。94歳、大往生ともいえるか。

 スタンリー・ドーネンといえばMGMミュージカルの巨匠だ。ヴィンセント・ミネリよりもドーネンという印象が強い。それというのもやはりMGMの看板スターだったジーン・ケリーの「雨に唄えば」を共同監督していることと同時にフレッド・アステアの傑作「恋愛準決勝戦」を撮っていることからくるのかもしれない。いわばミュージカルの巨星ともいえべきアステア、ケリーの代表作を撮っていること。さらにはケリーの「踊る大紐育」、アステアとオードリー・ヘップバーンが共演した「パリの恋人」の監督であることも。

 しかしもともとはダンサーか兼振付師としてキャリアを出発し、当時すでに大スターだったジーン・ケリーに見出され、その助手としてMGMに入社したという。そして「踊る大紐育」「雨に唄えば」で共同監督としてデビューした。二本ともケリーのケリーによる映画であり、まさしくドーネンは助手、助監督的な立ち位置だったのではと思う。ただしジーン・ケリーに信頼されていたこともあり、共同監督というポジションを与えられたのだろう。

 ある意味、ジーン・ケリーはナイスガイであり、自分の助手であるドーネンを引き上げたともいえるのだろう。「踊る大紐育」(1949年)、「雨に唄えば」(1952年)、その間に「恋愛準決勝戦」(1951年)となっているので、実施的なデビュー作は「恋愛準決勝戦」ということになる。この映画もある意味ではアステアの様々なアイデアを映像化するために腐心したのだろうが、主はアステアであり、ドーネンは従的ポジションだったのかもしれない。

 ドーネンは大スターを気持ちよく演じさせることに長けた人だったのだろうと想像する。それこそケリーの助手を努めることで培ったのだろう。

 そういう意味でみると彼が60年代に撮った「シャレード」などもオードリー・ヘップバーンはのびのびと演じていたようにも思う。

 しかし、60年代以降ミュージカルが衰退すると彼の活躍場所もじょじょに少なくなる。そして70年代にはほとんど活躍することなく、80年に凡作SF映画「スペース・サタン」を最後に監督としてのキャリアを終了した。

 10年早く生まれていたら、もう少しミュージカルでの活躍の場があったかもしれない。ミュージカル映画全盛期にあっては彼は遅れてきた青年だったわけだ。1924年生まれのドーネンは「踊る大紐育」の時には25歳、「雨に唄えば」は28歳である。共同監督とはいえ若過ぎるキャリアである。1912年生まれのジーン・ケリーは、12歳下の若いダンサー兼振付師をよほど気に入っていたということになる。

 そうなると下種の勘繰りではないが、ケリー、ドーネンはそういう関係かと、ちょっと検索してみるも、ケリーがゲイという話はない。まあ普通に友情、先輩、後輩という関係だったのだろう。

 ジーン・ケリーは1996年に83歳で死去、翌年にスタンリー・ドーネンアカデミー賞の功労賞を受賞する。感激のあまり、ついスピーチが歌になり、そして踊り出すという有名なシーンだが、ミュージカルの巨匠の愛らしい一面が見ることができる。ある種の感動を誘う。


Stanley Donen Receives an Honorary Award: 1997 Oscars