レ・ミゼラブル

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あんまり話題になっているから、観た人がみんないいというもんだから、観に行ってきました、昨日。上映ぎりぎりの時間に行ったのだが、席は9割方うまっていて、とれたのは一番前の席だけという。近所のシネコンで午後の2時過ぎ、日曜日ということもあり、一番混む時間帯なんだろうが、まさかのフルハウスにはびっくり。地方都市のシネコンでこれなのである、大ヒット上映中は嘘ではないということか。
一番前の席はスクリーンを見上げるようにしなければならない。一緒に行った妻などにはかなりしんどい席かもしれない。が、私の場合は少しも苦痛ではない。最近は劇場で映画を観ることの少なくなってしまったが、昔々それこそ年間100本以上映画観ていた頃というと、常に一番前の席で観ていたから。なんていうのだろう、スクリーンと自分の間に誰かがいることが許せないみたいな感覚があったからだろうか。
最近の映画館は階段というか上からスクリーンに向けて傾斜になっているからそういうことはないのだろうが、昔の映画館は傾斜が緩く、前席に座高の高い人だの、姿勢の良い人がいると、スクリーンの半分くらいが隠れてしまうなんてこともあった。それが苦痛で苦痛でしかたなかった。そんな悶々を感じていたときに、確か「さらば映画の友よ インディアンサマー」という映画マニアを主人公にした映画の中で、全人生を映画を観ることに捧げているようなシネマニアを川谷拓三が演じていた。彼曰く、前席の左から何番目かの席は自分の席と決めていて、誰かがそこに座っていると、指定席でもないのに頼み込んで代わってもらったりもする。スクリーンに一番前の席で対峙するという姿勢にもろに影響を受けたりしたんだった。
とはいえ一番前の席で映画を観るのはある意味苦行だったりする場合もある。舞台がある映画館だとスクリーンの手前が隠れることがあったりもした。また字幕によっては左側だったり右側だったりもする。一番前にいると視線移動が多くて意外と映画に集中できなかったりとかもした。今、思うとアホらしい、そんな思いまでして一番前で観る必要なんかなかったのにね。
シネコンの小さなスクリーンは前席からだとけっこう近すぎて、まあ普通に観ずらい部分もあったが、苦痛になるほどではなかった。ただ確実に顔を上向きにし続けなくてはならない。でも小さな画面も一番前だとそこそこに迫力もあり、それはそれでいいかとも思った。
まあ席の話など、どうでもよろしいことではある。「レ・ミゼラブル」のことだ。もともとイギリスで、さらにブロードウェイでもロングランを続ける大ヒットミュージカルの映画化である。全編セリフはすべて歌、しかも最近のミュージカル映画には珍しく、役者が全員吹き替えなしで歌っている。ある意味、ミュージカルの王道をいく映画といえよう。
ただしミュージカルの王道といいつつもそれは1960年代以降のそれという意味を込めてということになる。ミュージカル映画はかってMGMを中心に一世を風靡した映画ジャンルだった。アステアやジーン・ケリーを中心に数多のスターを輩出した。歌、ダンス、芝居が融合されたエンターテイメントだったと思う。それが1960年代後半あたりから一気に廃れてしまった。突然歌いだすことの非現実。ボーイ・ミーツ・ガール、ハッピー・エンドの御伽噺が、リアリズム全盛の中で批判されまくったし、観客にも飽きられたということなんだろう。「レ・ミゼラブル」の紹介レビューにもこんな記述がある。
『レ・ミゼラブル』の映画化は成功したのか?ミュージカル映画の賛否に迫る!|シネマトゥデイ
「シカゴ」は歌唱シーンを主人公の妄想として描くことで現実との折り合いをつけたか。なぜそこまでして現実にひれ伏す必要があるのかと思う。歌唱もダンスもある種の感情表現である。それを全面に出してなにが悪いと。歌や踊りが非現実だといわれたら、芸術表現の一つだと居直ればいいだけのことだったのだ。1960年代後半はニューシネマやらフランスのヌーベルバーグとかが台頭してきた時代だ。特にニューシネマはリアリズムを主張していたが、それが行き過ぎて大事な映像表現を多くを否定し尽した。そういうことだったのだろう。
ヌーベルバーグはというと、あれは一種の映像至上主義みたいなものだったから、ミュージカルも正当に評価したし、あの流れの中から「ロシュフォールの恋人」みたいな名作も生まれた。同じジャック・ドミーの名作「シェルブールの雨傘」は全編セリフを歌にしているが、あれはたぶんミュージカルではない。きちんとしたドラマであり、映画表現としてセリフを音楽化したのだ。このへんのことが理解できないでいると、なんでもかんでもミュージカルになってしまうし、リアリズムとの折り合いをつけてミュージカル映画とは別物になってしまうのだと思う。
1960年代、ミュジーカル映画の受難が始まった。非現実性とお気楽ハッピーエンドストーリーがもろに批判の的になった。そのためミュージカル映画にも社会性を取り入れなくてという試みが行われた。「サウンド・オブ・ミュージック」がナチスによりオーストリア併合という歴史的事実を取り込み、「ウェスト・サイド・ストーリー」がニューヨークの移民、人種問題を取り上げた。それらは傑作となったがある意味、ドラマ性、社会性重視の姿勢はミュージカル本来のもつスタイルや歌手=役者の第一級の歌唱やダンスといった表現を限定したものに矮小化させてしまった。
さらにいえば演出部分でもいかにダンス・シーン、歌唱シーンをより新しい映像効果とともに見せるかという部分の工夫も次第に廃れてしまった。群舞シーンの進取な映像表現、バズビー・バークレイ等による、より面白い撮り方といった部分の至芸は顧みられなくなっていった。まさしくミュージカル映画は死んでしまったのかもしれない。
さてと、そういう文脈でいうと「レ・ミゼラブル」はどうか。良い映画であるとは思う。さらにいえば私は観ていないのだけれど、この映画は明らかにブロードウェイの舞台ミュージカルに徹底的に忠実な演出が施されているようにも思った。舞台ミュージカルの映画化、それ以上でも以下でもない。
歌唱シーンではこれでもかこれでもかというくらいにカメラが寄る、クローズアップの連続である。役者が熱演、熱唱すればするほど、なんというのだろう、少し暑苦しさ、むさ苦しささえ感じるようにも思える。なぜこうもアップを多用したのだろう。それはたぶん歌唱だけでダンス・ナンバーとなっていないからなのかもしれない。
セリフを総て歌にしたこと、それ以外はある意味普通の演技だけである。ダンスシーンは皆無である。「シェルブールの雨傘」の史劇版みたいな感じである。こういうのは近年でいえば、確か「スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師」なんかも同様だったか。あれもミュージカルというより全編歌唱による怪奇劇みたいな風だったか。
そう結論的にいえば、映画「レ・ミゼラブル」は秀逸な映画ではある。しかしこれはミュージカル映画ではない。舞台ミュージカルをそのまま映像化しただけであり、全編セリフが歌唱になってはいるが、そういう演出手法を取り入れた映画、ただそれだけであると。
ヒュー・ジャックマンラッセル・クロウも名優である。素晴らしい演技とたぶん相当のヴォイス・トレーニングを積んだのだろう、歌唱も見事だ。でも動きはない。おそらく彼らは歌って踊り、さらに演技もということは難しいのだろう。だからこそカメラは寄りっ放し、クローズアップばかりということになるのだ。
もしダンス・ナンバーが幾つか配されていれば、カメラは引いた俯瞰による描写も増えただろう。ただ思うにこのミュージカルには元々、そう舞台版にもダンス・ナンバーがほとんどないのだろう。そうかこれはミュージカルじゃなくて歌劇なんだ。歌劇の映画化として考えれば別にそういうものだと受け止める、そういうものだ。
映画自体は158分とやや長めだが、さほどダレるということもなく面白く観ることができた。前述したように役者の演技は申し分ない。ストーリー的には元々が大長編小説であり、それを3幕のミュージカルにしたものだ。ある種ダイジェスト版みたいな展開にならざるをえまい。このへんは映画がどうのという以前にもともとの舞台ミュージカル自体の問題。その流れでは多少のご都合主義もあるし、お話の展開は、みんな「ああ無情」のお話は知っているよね、というのが前提にあるような感じである。逆にいえばまったく事前の知識なしでこの映画を観ると、なんとなく「なんでなんでなんで」みたいな疑問を覚えるかもしれない。
ただし、その手の省略手法も歌詞とかにうまいこと取り入れてある。なんたってパン1個で19年の苦役を歌詞の中のワン・フレーズで表現しちゃうのだから。
映画としての評価は高得点だ。大ヒットするのもわかる。ヒュー・ジャックマンアン・ハサウェイがオスカー取っても不思議ではない。いや取らせたくなるような圧倒的な演技力だったとも思う。でもちょっと小声になるけど、あえてもう一度いう。この映画は歌劇映画であってミュージカル映画ではない。