ルーベンス展を観る

 昼少し前、カミさんとお出かけモードになり、群馬の美術館へ行こうということになった。で、車を出した途端、電気系統の不具合でハイブリッドがうまく作動していないことが判明。画面表示に様々なシステム点検の表示が無限ループのように出る。諦めていったん家に戻り、ディーラーに電話をする。

 それからしばらくして再びエンジンかけてみるが、相変わらず警告表示が出る。で、かたっぱしからボタン類を押していったところトリップの両側あのボタンを押してみると、いきなり走行可能の表示に戻った。それでディーラーと連絡を取り合い、ディーラーが引き取りに行くというのを断り、こちらから持ち込むことにする。

 結局、システムのリセットをしてもらい、再度症状が出たらメインユニットの交換とかそういう話となる。ディーラーから購入した2年落ちの試乗車上がりとはいえ、やっぱり中古はいろいろあるなと思ったりもする。ここんところ新車を3台続けていたので、こういうトラブルはなかっただけにいろいろと考えることはあるが、まあ安かったし、こういうのも受け入れていくしかない。

 それで群馬行きはもう無理ということで、代替案として上野にでも行ってみるかということになる。上野では今は、上野の森でフェルメール東京都美術館ムンク、トーハクでデュシャン、そして西洋美術館でルーベンスをやっている。フェルメールは予約日時指定のため、端から問題外。ムンクは多分めちゃ混みだろうから、デュシャンルーベンスと消去法していく。で、犬さえも感動させたバロックの巨匠か便器かという二択で、とりあえずフランダースの犬が勝つ。

 まあルーベンスはオールド・マスターというか、せっかく大回顧展やっているのであれば、はずす訳にはいかないだろうということになる。実際のところ絵画史上でも「画家の王」とまでいわれる、画家としてもっとも成功した人である。

 画力抜群、構成力、題材、着想、すべてにおいて秀でた画家といえる。活躍した16~17世紀、出自のオランダという点から、例えばカラヴァッジョ、ベラスケス、カラヴァッジョ等と比較されることもあり、ここは好き好きということになるのだろうが、そうした巨匠と比しても優劣つけがたい大巨匠である。

 さらにいえば、写実性を担保にしながら、豊満な女性の肢体、筋骨隆々な男性の肉体を描き、それは人間性の理想を表現しているともいわれている。

 ということで、確かに素晴らしい傑作ばかりなんだが、ここからは好みの部分となるのだろうけど、正直ルーベンスは苦手かもしれないなと思った。オールドマスター系でも自分の場合はやっぱり趣味がわかれるなとも。例えば同じ筋肉質の男性を描いたとしても、例えばフセべ・デ・リベラのような陰影に富んだ作品の方が感受性を刺激される。

 さらにいえばルーベンスの取り上げるモチーフ、題材、そしてどうだすごいだろうといわんばかりの構成、表現は、なんとなくもうけっこうですという感じになる。なんかこうビフテキばかり食わされているような感じになる。おまけにその劇的な構図が芝居の書き割りのような感じで、同じ固まった瞬間としてもカラヴァッジョのような陰影感がある方がドラマチックな印象があるのだが。

 そういうさり気なさがまったくない大掛かりな絵ばかりでやや食傷気味というのが素直なところだ。それでいて家族などを描いたときには妙に親密的な感じでほっこりさせる部分もあるにはあるのだから、始末に悪い。

 誰かがきっと書いているんじゃないかと思うのだが、ルーベンスの特色の一つはあの赤々と染まった頰の表現だ。密かに「燃ゆる頰」と名付けてみました。

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クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像

 実際よりも強調されたこの赤みは、ルーベンスの描きたかった生命力の強さ、美の強調表現だったのかもしれない。燃ゆる頰というとなぜか堀辰雄の小説を思い出すのだが、そういえば堀辰雄の処女作は『ルウベンスの偽画』だったし、『聖家族』といえばルーベンスの『聖アンナのいる聖家族』を想起させる。堀辰雄はどこかでルーベンスの絵を観ていたのかなとか、かってに想像してみたりする。もっとも掘の燃ゆる頰はおそらく肺結核患者の微熱によるものだったのかとも思うが。

 という訳でルーベンスを好きになるには、まだまだ修行が足りないのだろうが、食傷させていただいたビフテキの数々を少しだけアップしてみたりする。

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聖ゲオルギオスと竜

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パエトンの墜落

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ローマの慈愛キモンとペロ

 食糧を与えられない餓死の刑を受けた瀕死の父親に娘が自らの母乳を与えるという慈愛を象徴する古代ローマの物語を表現した作品などという。こういうのを慈愛と受けいれられる時代だったのかどうか、自分などはもうだいぶ引くような絵柄である。

 こういうちょっと好奇をひくような題材は画家にとっては大衆受けという意味でも必要だったのかもしれないけど、どうにも倒錯した、ちょっと勘弁してほしい系のエロティシズムを感じるのは、自分が下卑た人間のせいなのかもしれないが、とても慈愛を感じることはできない。

 しかしこの手のセンセーショナルな題材も大衆受けという点では必要だったのかもしれない。しょせん絵描きは当時ではエンタテナーだったんでしょう、などと思ってみたりもする。