イースター・パレード

イースター・パレード(字幕版)
 

  BSプレミアムで録画してあったものを観た。フレッド・アステアジュディ・ガーランド共演のミュージカルで1948年製作。MGMミュージカルがもっとも輝いていた時代の代表的な作品でもある。これはもう何度か観ているが改めて観ても楽しめる作品だと思う。

 当時アステアは48歳、戦前のRKO映画でアステア・ロジャースで一世風靡をしていたが、この時期は引退していた。もともとこの映画の主演はジーン・ケリーがやることになっていたのだが、プライベートでの事故で足を骨折して降板。ケリー自らがアステアを指名したという。アステアにとってはジュディ・ガーランドとの共演、アーヴィング・バーリンの佳曲で歌い踊るという魅力的なオファーで復帰することになったという。

 さらにいえば、この映画はもともとはジュディ・ガーランドジーン・ケリーの共演、監督は当時ジュディの夫でもあったヴィンセント・ミネリがやることになっていたのだが、ミネリはガーランドとの個人的問題を理由に降り、職人監督チャールズ・ウォルターズが代わることになった。さらには劇中、アステアの前のダンス・パートナーであり、アステアを踏み台にしてスターダムにのし上がる役はもともとシド・チャリシーが演じることになっていたが、彼女も怪我のため役を降りる。代役を担ったのがタップの名手アン・ミラーである。

 こうした俳優や監督の交代がありながらもこの映画は大ヒットしたという。さらにいえば脚本には後に『真夜中は別の顔』『ゲームの達人』などでベストセラー作家となるシドニー・シェルダンも参加している。我々の世代には英語教材の『追跡』が有名かもしれない。

 ストーリーは、パートナーに去られたスター・ダンサーが、酒場のダンサー兼歌手を新たなパートナーに仕立て上げようとする。二人は互いに惹かれ合うが、幾つかの行き違いがあり、最後は結ばれるというハッピーエンドとなる。ギリシア神話ピグマリオンを翻案したもので、同じテーマは後に『マイ・フェア・レディ』でも翻案されている。

 当時、フレッド・アステアは48歳、ダンサーとしては体力的には下り坂となる年齢だが、円熟した彼とトレードマークともいうべき優雅なダンスに歌に、素晴らしいパフォーマンスを見せている。

 ジュディ・ガーランドは当時25歳だが、子役時代からスターとして活躍してきただけにトップ・スターとしての貫禄を随所に示している。歌はもちろんのこと、ダンスにおいてもアステアのパートナー役を見事に演じている。薬物中毒で撮影を遅滞させるお騒がせ女優だったジュディ・ガーランドもこの映画での撮影時は体調も良かったようだ

 アステアの自伝の中でジュディについてはこんな風に綴られている。

 ジュディ・ガーランドはフレッド同様に彼との共演を喜び、同時に『踊る海賊』を撮り直ししなくてはならなかったにもかかわらず、撮影中はずっと行いがよかった。フレッドはジュディの踊りを覚える能力に驚き喜んだ。彼女は基本的にダンサーではなかったが、一連のステップを二度見ると、あとはステップを繰り返して踊れたのだ。リタ・ヘイワース以来、フレッドが知り合った最高の生徒だった。

                           『アステア』(新潮社)P250

 この映画でもアステアは彼のキャリアの中でも10指に入るようなダンスナンバーを披露している。一つは玩具店で玩具のドラムを相手に踊る『ドラム・クレイジー』。通常、アステアのダンス・シーンは簡単な音楽をバックに彼が踊り、後からオーケストラを彼のダンスに合わせて吹き込む。それに対して、この『ドラム・クレイジー』では先にすべての録音が行われており、アステアはサウンド・トラックにシンクロさせて踊っているという。

 そしてもう一つの有名なダンス・ナンバーが、ある意味でアステアの個人的な歴史だけでなく、映画史にも残るダンスメンバーたちをバックにアステアがスローモーションで踊る『Steppin' Out With My Baby』だろうか。いろいろとこのシーンの種明かしや解説はあるのだが、これについては和田誠のそれが一番しっくりくる。

あれ、考えてみると、バックにものすごい早い回転でね、スクリーンに映しているんだと思う。アステアは普通に踊ってさ、それを高速度で撮ってるから、映すとバックは普通に動いて、アステアはグニャーとなるわけだ。

                    『たかが映画じゃないか』(文藝春秋)P58 

  この映画にはミュージカル映画の神髄-歌と踊りと恋、そしてハッピーエンド-が詰まっている。