大鵬逝去

http://www.asahi.com/sports/update/0120/TKY201301190382.html
第四十八代横綱 大鵬 オフィシャルサイト
我々のような古い人間からすると、大相撲といえばこの人だったようにも思う。先代の貴ノ花こと花田とか輪島とか、北の海や千代の富士とか一時代を築いた関取は数多いたけれど、やはり大相撲のスーパースターといえば横綱大鵬だった。
活躍した時代は私の小学生から中学生にかけての頃。引退は71年だから中三の頃になるのだろうか。とにかく強い横綱だった。柏鵬時代というが、柏戸大鵬に勝ったのは数えるほど、片手でもあまるくらいに少なかった。たいていは大鵬の圧勝だったように思う。ライバルが貧弱過ぎた、いやいや同時代的に佐田の山、栃の海,北葉山などなど強い力士は沢山いた。ただ大鵬一人が群を抜いた強さだったのだと思う。
その圧倒的に強い大鵬を私はアイドル視していたか、いやいや当時からへそ曲がり、ひねたガキだった私は、妙に判官びいき大鵬を敵視していた。とにかくあの圧倒的な強さが嫌いだった。だから彼に挑む小兵力士をずいぶんとひいきにした。玉の島だの藤ノ川といった力士たちだ。藤ノ川はたった一度だけ大鵬から金星を得ているのだが、それを見たときなどは小躍りしたものだった。
そういう子ども時代を思い返すと、その時分はずいぶんと相撲を見ていたようにも思う。学校から帰ると相撲放送を食い入るように見ていた。11時過ぎからやっていた大相撲ダイジェストも時々は見ていた。相撲は子ども時代の私にはプロ野球とともに生活の一部だったのだと思う。今思うと、よほど暇だったのだろうな私の子ども時代は。とにかく毎日沢山のテレビを見ていた。それから比べれば今の子はよく勉強していると改めて思ったりもする。
大鵬は当時、昭和の高度成長期にあっては、間違いなく長嶋、王とともに、アイドル、スーパースターだったと思う。誰もが知る名実共に最高位に位置する憧れの存在であった。それはそのまま昭和を代表するスターをも意味する。例えば石原裕次郎がそうであったように、美空ひばりがそうであったように、そしてさらにいえば昭和天皇がそうであったようにである。
そしてそういうスターがまた一人、また一人と鬼籍に入る。それと同時に昭和という時分が生まれ生きてきた時代が、同時代というものが、歴史という過去に置き換わっていくのである。
降る雪や 明治は遠くなりにけり
中村草田男が在籍していた小学校を20年ぶりに訪れたときに詠んだ句である。時代を愛惜するノスタルジイを詠んだ有名な作品として語り継がれてきた句でもある。この句を換用して明治を昭和に置き換えて昭和という時代に愛惜の思いを抱いてもみたりもする。
かっての大相撲のスーパースターの死によって、昭和という時代がまた一つ遠いものになっていく。淋しい、淋しい気持ちになる。
あまり想像したくないことではあるのだが、これで巨人軍の3番をつけたあの人が去っていくことになった、もう本当に昭和という自分が生きた時代が失われていくような、とてつもない喪失感を抱くことになるのかもしれない。
そのとき私は、いつかくる、順番にくるものということでそれを受け入れることができるのだろうか。「そういうものだ」とシニカルにつぶやいてみることができるのだろうか。
華やかな現役時代の実績に比べると引退してからの大鵬の人生は、かなりつらいものがあった。実績からすれば相撲協会理事長の座につくことは当然のはずだったのだが、36歳の時に脳梗塞を発症して半身不随になる。妻が同じ病で障害を負ってしまったこともあり、このへんはある種同病相哀れむではないけれど、親近性を思う。36歳、あまりにも早い発症である。なぜ俺がという思いだったことだろう。聞けば脳の左をやったということだが、そうだとすると通常は右半身と言語や嚥下に障害がでる。下半身総てというのはピンポイントで運動神経を冒したのかもしれない。脳の疾患はまさにピンポイントなのである。同じ梗塞巣であっても、同じ出血であっても外れれば軽症ですむし、運動中枢に関わればまちがいな重大な障害になる。
大鵬は懸命なリハビリの結果、親方業に復帰して大鵬部屋を盛り立てた。しかし名横綱がけっして名コーチであるわけもなく、横綱を育てることはなかった。さらには時分の後を継がせた娘婿は野球賭博で相撲界から追放された。弟子筋にあたる外人力士は大麻事件で同じく追放される。引退後の大鵬の人生はあまり幸福であったとはいえそうもない。
とはいえ彼が一大の大横綱であったことは、その実績からも誰もが認めることだ。そして我々のような年代の者にとっては、戦後の、同時代のスパースターとしていつまでも記憶される存在なのである。
冥福をお祈りします。