ゲイ・カルチャーとウェスタン(西部劇)

久々、酔いどれているのでキーボードが走る、流れるかも。1年近く前に購入した内田樹の新書をなぜか最近つらつら読み始めた。といってもきちんと読むのではなく、飯時ビールのお供に流し読みみたいな感じである。最近こうゆうの多いのよね。硬軟とりまぜてね、一家団欒鍋を囲みながら原発本片手に焼酎煽ってたりして、娘に話かけられても「うるさい、パパちょっと今忙しくて」などと、しょうもないオヤジだ。
で、読んでいるのが内田センセイのシネマ本。

うほほいシネクラブ (文春新書)

うほほいシネクラブ (文春新書)

  • 作者:内田 樹
  • 発売日: 2011/10/19
  • メディア: 新書
こういう映画評論というか映画鑑賞読本あるいは映画感想文は楽しいですね。短文ですっと読めるし、同感できてもそうでなくても流すことができるから。どっちにしても映画好きが書いた映画についてのお話を、とりあえず映画好きが読むという部分ではとりあえずたのしく映画についての時間を共有できる。それだけでOKという感じですな。古くは村上春樹川本三郎の共著とかにもこういうのがあったかなと、ふと本棚に一瞥くれてみる。
さて内田センセイである。年齢的には5〜6歳上なのだが、ほぼ同じような時代の映画を観てきているのだろうということはわかる。なのだがこの映画でとりあげらているものの多くが意外と新し目の90年代から2000年代にかけてが多くて、そのへんが私の映画不毛期と重なっているので、けっこう観ていないものも多かったりもするのだが、まあ気にしない。基本夕食時のビールのお供なので、軽く読み飛ばす。個々の映画への短評には同感するものもあればこれはちょっとと思うものもある。その中で、それこそ目から鱗だったのがこれ。 このゲイとカウボーイというある種、異化効果でも狙ったような映画、私的には忌み嫌っている部分もあった。以前の感想はこんな感じだろうか。
2006-11-17
まあ、あんまり評価しちゃいないね。でも「バナナ・フィッシュ」を本当に誰かハリウッドに売り込んでくれないかとは今さらながら思うわ、6年経った今でも。
そういう低評価映画に対して内田センセイはこんなご託宣を。それがなんとも納得みたいな感じで、最初に言ったようにまさにく目から鱗なのである。あんまり納得させられたので、ほぼ全文引用しちゃう。

ハリウッドで西部劇が作られ始めたのは1910年代からのことです。それまで西部劇映画は、東海岸でブロードウェイの役者たち(もちろん実生活でも馬にも乗らないし、銃も撃たない)によって演じられていました。しかし、フロンティア・ラインが太平洋岸に達し、失業したカウボーイたちが大挙してハリウッド製西部劇にエキストラとして参加するようになって、西部劇映画は一変したのです。はじめて「ほんもののカウボーイ」たちの息づかいや体臭がスクリーンににじみだすようになったのでした。
だから、ハリウッド製西部劇にはこの「映画俳優になった元カウボーイたち」が確執する物語形式が刻印されています。
それは「男たちが輝いていた、あの失われた黄金時代についての回想」という形式です。
近過去についての回想ですから、細部は正確に再現されています。けれども、近過去についての回想であるがゆえに「思い出したくないこと」への抑圧もそれだけ厳しい。
カウボーイたちが抑圧した記憶(だから、これまでの西部劇映画の画面に決して登場しなかったもの)は二つあります。一つは黒人やアジア人のカウボーイたちの姿(実際にはもっとも雇用障壁の低い職種であったカウボーイは「人種のるつぼ」だったのでした)。もう一つがこの映画のテーマである「カウボーイ同士の愛」です。
『西部開拓史』でデビー・レイノルズが高らかに宣言したように「カリフォルニアでは女一人に男四十人よ!」というほどに開拓時代には性別人口比率が非対称でした。ほとんどのカウボーイは配偶者を得られるずに生涯を終えることになりました。だから、カウボーイというのは「男同士の愛」のあり方について研究する機会がきわめて豊かに与えられた職業だったのです。
この映画でハリウッドはこの「禁じられた主題」にはじめて取り組みました(ただし監督は台湾出身のアン・リー)。
この映画から私たちはアメリカの白人男性のメンタリティについて、いくつか重要なヒントを得ることができます。彼らがなぜ女性を「財貨」として珍重するのか。彼らがなぜ自分たちの「ホモ・ソーシャル」な文化をグローバル・スタンダードにしたがると同時にひた隠しにしたがるのか。彼らがなぜ「父」をあれほど恐れるのか。とりわけ、彼らがなぜいまだにカウボーイをある種のロールモデルとして自己造形しようとするのか。それらの秘密の答えがこの映画にひそやかなに描きこまれています。
最後の問いの答えだけ教えておきましょう。それはテンガロン・ハットのひさしが涙を隠してくれるからなんです。P24-25

なんか膝をうつような感じで納得というか見事の論調である。おまけに最後にきっちり話落としてくれる。これはもう映画批評を超えた芸であると。こんな風に思いも寄らぬ映画の見方は指し示してくれたのは、子どもの頃に淀川長治先生の語りだけでなく文章を読んだ時以来かもしれんぞと、これはもう大絶賛である。
確かにカウボーイの世界はまさしく男だけの世界だ。といっても町に出ても女は安酒場や淫売宿くらいに限られる。デビー・レイノルズの宣言のように性別人口は40対1だったのかもしれない。
そうなると長期間牛だけを追って男たちだけ過ごす集団生活である。当然、性の捌け口を同性に求めるというのはある意味自然の摂理なのかもしれない。刑務所や軍隊において行われているようなことが連綿と続いていただろうとは、言われてみれば普通に想像できる。それをハリウッドは「男たちが輝いていた失われた黄金時代への回想」という名のもとに固く封印してしまったのだろう。
それはハリウッドによる徹底したイメージ戦略の一つだったのだろう。白人社会、アングロサクソンにはゲイ・カルチャーは存在しない。アジア人も黒人も存在しないようにということなのだろう。
栄光につつまれた西部開拓史の暗部、男たちのセックスはどう処理されていたか。来る日も来る日も荒野の果てを行く生活。なんとなれば少年ややさ男たちは好色な視線にさらされることになったのではないのか。
そんなことを思うにつけ、改めてかっての栄光の西部劇を思い返してみると、なんとも怪しげな雰囲気を醸し出し始めるではないか。TVドラマ「ローハイド」のロディはみょうにうわついたやさ男だった。あれはなんとなく男娼っぽい色気を醸し出していなかった。まあ今では映画監督の巨匠になってしまったけど。
ハワード・ホークスの「赤い河」について。ジョン・ウェインモンゴメリー・クリフトの格闘シーン。あれはどうも無理があるんではないかと誰かが語っていたのを記憶しているけど、あれは一種の痴話ゲンカみたいなものか。そもそもあの構図はそれこそ戦国時代の大名とお稚児さん、あるいはお小姓のそれみたいなものではないかとさえ思えてきたりもする。
そもそもジョン・ウェインのあの妙に引き締まった下半身、ヒップライン、あれはお好きな方にはたまらないのかもしれないとか。なんか我等がヒーローもかたなしではある。
明日に向かって撃て」のブッチ、キャシディとサンダンス・キッドの関係だって怪しいものだ。サンダンスの恋人エッタを含めた三角関係だってあるいはもっとドロドロとしたものがあったのかもしれん。
西部劇ではない現代劇ではあるが例えば「脱出」なんていう映画でも、普通のおっさんが(確かおデブのネッド・ビーティだったか)、山男に犯されるなんていうのもあった。男が男を性処理の対象としてなんていうのは、かってのアメリカでは、田舎のアメリカでは普通にあったことなのかもしれない。そしてそれを多くのアメリカ人が、あるいはアメリカ社会は、あるいはピューリタニズ的モラルは、恥ずべき歴史の暗部として記憶の底から除去しようと努めてきたのかもしれない。それらが戦後徐々に復権してきたゲイ・カルチャーへの先鋭的な憎悪を引き起こしているのかもしれない。
ゲイ・カルチャーを性に関する民俗の一つとしてとらえるようなおおらかさが、そこには欠けているということなんだろう。
ただし1800年代から1900年代にかけてという時代的限界もある。性はきわめて抑圧的であったろうし、ある部分ではきわめて暴力的でもあったことだろう。そういう時代の西部、無法地帯での出来事である。その生々しくも禍々しき近過去の記憶を抑圧的排除しようとする試み、それがハリウッド製西部劇のストイックな男たちとして徹底的に美化されていった過程なのかもしれないと。
たぶんそういう一切合財をアジア人監督アン・リーがぶち壊してみせたと。それが「ブロークバック・マウンテン」の衝撃だったということなのかもしれないと。いや〜、いろいろ考えさせられます。それでは、これからコレクションの中から引っ張り出してもう一度観てみようかと。いや、それはないですな。私は基本、男と女であれ、男同士であれ、リアルなまぐあいとかあんまり見たくないですから。