これもBSで以前録画したもの。ジョン・フォード、ジョン・ウェインの傑作西部劇として映画史上にも名高い作品で、もう何度も観ている。このダイアリーの記録を見ると2005年に記録がある。16年ぶりの再見である。
家族をインディアンに殺され、幼い姪を連れ去られた南軍の復員兵士が復習と姪を連れ戻すために6年にも渡る追跡を行う。復讐鬼と化した主人公の捜索の旅を描いているため、フォード、ウェイン西部劇に通底する詩情やユーモアは無縁、逆に陰惨と緊張感に溢れる映画となっている。
ジョン・ウェイン扮する復讐鬼イーサン・エドワードは、やられたらやり返すとばかりに殺したインディアンの頭の皮を剥ぎ、連れ去れインディアンの妻となった姪を一時は殺そうとまでする。
エドワードに同行するのは若いインディアンと白人の混血の若者で、彼は殺された家族に引き取られ家族同然として育てられた出自をもつ。彼は一貫して自分にとって妹のような存在である連れ去れた少女を家に連れて帰ることを主張する。彼の人間性が復讐鬼と化したイーサンの心を溶かす、そんな関係性が描かれていく。
この映画は自分が生まれた1956年の公開で実に64年前の作品だ。公開当初の評判を芳しいものがなく、興行的にも失敗している。60年代になってから若い映画作家や評論家、特にヌーベルバーグのゴダールやトリフォー等からの再評価の声に押され、一気にに映画史上に残る名作という地位を獲得した。今ではジョン・フォード、ジョン・ウェインの作品でも一、二を争う名作とされている。
個人的にはというと前述したようなフォード、ウェイン映画にあるようなユーモア感や詩情性に乏しい面、今一つという印象がある。自分的には『黄色いリボン』や『リバティ・バランスを撃った男』の方が好きかもしれない。
老練で屈強な男とそれに従う若者というコンビで成立するドラマはジョン・ウェイン西部劇の定番である。若者は反発しながらも鍛えられていく。これは多分、『赤い川』あたりからだったと思うが、このパターンが確立したのは多分この『捜索者』だと思う。そしてこれはジョン・ウェイン晩年作品『勇気ある追跡』などにも継承されている。この若者のロールモデルになったのは、『赤い川』のモンゴメリー・クリフトよりもこの『捜索者』のジェフリー・ハンター演じるマーティン・ポーリーかもしれない。純粋で朴訥、血気溢れジョン・ウェインに反発しつつもリスペクトしている。そういう若者だ。
ジェフリー・ハンターは50年代には正統派二枚目俳優として活躍したが、60年代に入ると低迷する。20代アイドル的に人気を博していても年齢を重ねるごとに以前のイメージではいられなくなるがうまくバージョンアップできない。いい年の取り方ができないタイプということか。この映画時には30歳、そろそろ二枚目アイドルを脱していくべきときだったのかもしれない。そういう意味では転機となるような映画だったのだろうが、うまく転換できなかったようだ。惜しむらくは1969年に42歳で脳梗塞で亡くなっている。早すぎる死だ。
女優陣ではマーティン・ポーリーの帰りを待ちわびる隣家の牧場主の娘をヴェラ・マイルズが後援している。健気で勝気、ジョン・フォード西部劇のロールモデル的な女性役だ。彼女は1929年生まれで当時27歳。現在も91歳で存命という。おそらくこの映画の出演した俳優の中で存命なのは彼女とこの映画でデビューさいたジョン・ウェインの息子パトリック・ウェイン(81歳)あたりではないかと思う。
インディアンに連れ去れ、酋長の妻となる娘を演じたのはナタリー・ウッド。人気子役女優だった彼女は確実にキャリアを積みこの時18歳。その後はお嬢さん女優として数々の映画にも出演し人気美人女優として活躍。この映画の3年後には大作ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』のヒロインにも抜擢されている。
久々に観たジョン・フォード、ジョン・ウェイン西部劇だが、さすがに21世紀の今日にあってはテンポも緩い。モニュメント・バレーの風景もカラーである分幾分か抒情性に欠くような気がしないでもない。やはりあの風景はモノクロの方が生えるのかもしれない。しかし、パターン化されているとはいえフォード映画の人情の機微、男臭さ、勝気だが貞淑な女性たちなどの世界はやはり癖になる。手持ちの映画を順繰りに観てみようかなどという気にさせられる。
この映画は前述したように1956年作品。まだベトナム戦争の影もなく、人種問題も顕在化していない。なので先住民=インディアンの描き方も白人を襲う野蛮な人種という定型化された描き方が成されている。今ではインディアンという言葉は使われることはできなくなり、セリフの「インディアン」は字幕ではすべて先住民と表記されている。
『捜索者』は、西部劇の、そしてジョン・フォード監督の映画史に残る名作という評価を得てはいるが、21世紀の今日にあっては様々な注釈と歴史的限界についての留保なくしては公開されることは難しい映画作品かもしれない。