「裸のフクシマ」

裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす

裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす

昨年出版されていることは知っていたのだが、ずっと手をつけずにいた本である。先月くらいだったか、アマゾンで購入して休み休み読んでいて、ようやく読了した。
著者たくきよしみつ氏は、パソコンやデジカメ等の使いこなしテクニック等をまとめた著作も多いテクニカル・ライター。他にも小説も手がけ、インストルメンタルギターのアルバムを何枚も出している音楽家でもある。多種多芸の才能をお持ちなのである。
そして今回の震災原発事故にあっては、福島第一原発から30キロ圏内の川内村に住んでいて被災された。本書はそうした立場からのインサイドレポートである。福島第一原発事故の直後から、HP上でレポートを度々アップされていて、私も事故直後によく拝見していた。被災した当事者でありながら、限られた情報から鋭い事故や放射能汚染について鋭い分析をされていて、そのリテラシー能力には脱帽の思いでいた。
事故直後、福島第一原発の1号機の爆発の後、福島から川崎の仕事場に避難していた著者は、現在は川内村に戻り生活をしている。川内村は比較的低線量の汚染だったのだが、それでも汚染はある。その土地で低線量被曝を受け入れて生活を開始した、たくき氏は事故直後の福島第一原発の状況は汚染の実態を分析し、さらには汚染された福島での人々の生活の実態等をレポートしている。350頁にのぼる本書はマスコミ報道では伝わってこない福島の現実について知らしめてくれる。なによりも福島第一原発事故のその後についてのやりきれない事実をつきつけられる。
本書にならって福島第一原発=「1F」(本書によると地元住民や関係者は福島第一原発をこう呼ぶ)の事故がもたらした事実、意味等を理解するうえでは、一番の良書だと思う。これまで例えば『メルトダウン』や『プロメテウスの罠』あたりが最もあの事故についての詳細をレポートしていると思っていたが、本書はより住民の視点に近い部分も描かれており、事故、原発、汚染を理解するうえでは、より多面性を持っていると私は思った。
幾つか気になった部分を引用する。

例えば、2号機は3月15日の6時頃、圧力抑制室(サブレッションチェンー=圧力容器の底部に直接つながっているドーナッツ状の部分。通常ここには水が溜まっている)付近で衝撃音(爆発音?)がして、このときに大量の放射性物質が外に漏れ、これが主原因で甚大な汚染が起きたということになっている。
2号機から放出された放射性物質が、最大の汚染原因になったということについても、専門家たちの意見はほぼ一致しているようだが、なぜ2号機だけ建屋がほぼ無損傷で残っているのかという説明ができていない。
水素爆発だという説が有力だが、水素は水に溜まるから、圧力抑制室のような低い場所で爆発するのはおかしいという話がある。
また、2号機は、1号機や3号機と違って格納容器外側で爆発したのではない。格納容器の内側で爆発が起きている。2号機の建屋がきれいなまま残っているのでそれは間違いない。しかし、格納容器は内部の圧力が高く、酸素が入り込めない。酸素がないところで水素爆発は起きないはずだ。
では、2号機の爆発(格納容器破損)はどのようにして起きたのか?
物理学者の槌田敦氏は、2号機では水素爆発ではなく、界面接触型水蒸気爆発が連続して起きた結果、圧力に耐えきれずに壊れたと見ている(『核開発に反対する会月刊ニュース』2011年5月号「同時多発原発災害、特に2号機」)。
炉心の圧力が上がったため海水が入らなくなり、水蒸気発生が収束。しかし逃がし弁が開きっぱなしだったので圧力が下がり、再び海水が入るようになって水蒸気爆発・・・・・・の繰り返しになった。圧力計の数値が短時間で激しく乱高下しているのはそれを裏付けている。
15日3時頃、原子炉は内部で繰り返された水蒸気爆発に耐え切れなくなり、圧力容器が破壊。圧力容器と外側の格納容器の圧力が同じになった。
次に格納容器がその圧力に耐えきれず、6時頃、音をたてて破裂。これにより圧力容器、格納容器、建屋内(外界)がツーツーに抜けてしまい、原子炉内にあった大量の放射性物質が一気に建屋内に噴出し、環境中に出ていった。
P41〜43

2号機がどのように壊れたのか、正確な過程はまだわからない。しかし、現時点でほぼはっきりしているのは、大規模汚染の「主犯」は2号機であり、1号機や3号機の派手な爆発だけであれば、放射能汚染の度合いははるかに低くて済んだということだ。 P44

これはある意味、私には新しい知見だった。大規模な汚染や関東地方の各地にもホットスポットを残した汚染を、私も当然のごとく1号機や3号機の爆発によるものの思っていた。確か『メルトダウン』や『プロメテウスの罠』もその線にそって書かれていたと記憶する。
これに対してたくきよしみつは、公表された文献、資料、データをもとに2号機主犯説を展開している。しかもそれが専門家の間では共通な見解となっているという。しかしマスコミには2号機主犯説などが報道されたという記憶が私にはまったくない。出版された書籍等でもそうした記述には接してこなかかったように思う。一方で技術者や専門家の間ではほぼ一致した見解であるということ。
このへんが原発事故報道の問題点であり、一般人が原発事故の真相に迫ることを難しくしている部分なのかもしれない。しかしデータや資料、報道を読み解く能力さえあれば、ある程度そうした専門家の認識に近づけるということなのかもしれない。
それ以上にたくきよしみつのリテラシー能力に驚きつつも、そうした事象から真相へと読み解いていく技術を身につけることの重要性を考えさせられてしまう。

ここで大切なのは「居残る権利」という考え方だ。
土と水という生活の基盤を汚された上に、我慢して暮らし続ける権利をも奪われたら、もはや人間として扱われていないに等しい。実際、1F事故後に僕の目の前で倒れていった近所の老人たちは、放射能ではなく、生きる意欲を奪われたことで倒れていったのだ。
日本はいま、従来の基準(1CRPやウクライナの基準)をあてはめたら、福島県丸ごとプラスαくらいの規模で国土を喪失している。
これはもう、議論している段階ではなく、現実として直視するしかない。
国土の狭い日本で放射能汚染を発生させてしまったことがいかに取り返しのつかないことか、もっと深刻に受けとめなければならない。
その上で、ではどうすればいいのかという命題は、もはや「汚染された国で、残りの人生をどう生きるか」という哲学的な領域に入ったと言えるだろう。
「居残る権利」は、そうした哲学レベルの話だ。
行政・政治には哲学に介入する権利はない。P155

福島の地で、いや広域に汚染されたという意味では関東地方に住む我々には1Fの事故によって引き起こされた放射能汚染の現実を直視し、汚染された地域、国土で生活することをある意味諦観として受け入れざるを得ないのだ。
もし経済的な部分がクリアされているのならば、子どもを持つ人々は1Fから広範囲に離れた地域に移住すべきなのかもしれない。子どもたちの未来のためにもそうすべきだ。しかし一方でそこから移り住むことができえない多数の人々がいるということが、圧倒的な現実なのである。汚染された地域で、被曝という日々の現実を受け入れざるを得ない大多数の人々がいる。
福島に住む人々は多かれ少なかれ、1F事故以前には考えられないような線量の被曝を受ける生活を続けていく。より低線量ではあるが、関東地方に住む我々も同様である。低線量の被曝環境であっても、外部だけではなく、常に内部被曝の恐れもあるのである。そしてその影響は今のところ誰にもわからない。「神のみぞ知る」なのである。ただし確実に被曝による健康障害の可能性は高まる。
これから長い人生を過ごすことになる子どもたちには、なんとも申し訳ない気持である。我々大人たちが原発を容認し、それによる電力を安易に消費してきたことのツケなのである。と、こんな風な総懺悔的な述悔は、たぶん原子力を推進してきたグループにとっては好都合なのかもしれない。彼らの責任を拡散させてしまうことに尽きるからだ。
先の大戦の戦争責任を、一億総懺悔という言葉のあやかしで、すり抜けてしまったのが、戦争指導者たちだったというのも歴史が教えるところだ。原発事故とその責任もまた、そうした形で今霧散化していこうとしている。

郡山のビッグパレット避難所に2ヶ月以上いたまさおさんは、自宅に帰って来るなりこう言った。
『避難所にいれば三食昼寝つきで何もしなくてもいい。毎日がお祭りみたいなもんだった。身体はなまるし、このままだとダメになると思って戻ってきた。俺みたいに2ヶ月もあそこにいた怠け者は珍しいべ」
そもそも川内村20キロ圏外の線量はほとんどの場所で郡山より低いのだから、何のために非難しているのかもわからない
まさおさんのように「あのままいたら身も心もダメになる」と自覚して戻ってきた人たちはまだいいのだが、仮設住宅に移ることを拒否して、集団避難所から出ようとしない人たちも少なくなかった。仮説にうつれば自分たちで食事を作り、光熱費を払わなければならない。金がかかるのは嫌だ、という理由からだ。
加えて、集団非難所にいた人たちには後から補償金や慰謝料が多めに支払われるらしいという噂が広まったことも理由のひとつになっていたという。
避難所周辺のパチンコ店は連日避難者で盛況だった。P185

原発ぶら下がり体質をとうぜんと思いこんでいるのは原発立地の首長や県選出議員など政治家ばかりではない。住民の中にも、相当、一般県民とはずれた意識を持っている人たちがいる。
僕のもとには、避難所にボランティアで入っていた人たちからいろいろな話が伝わってくる。
埼玉県にある廃校となった高校校舎は、浜通りの某原発立地町の住民の避難所となったが、そこにボランティアで入っていた人は、避難住民が、
「自分たちの生活は、一生、国と東電が面倒みてくれる」
原発敷地内の草取りは時給2000縁だった。今さら時給800円でなんて働けるか」
といった会話をしているのを聞いてショックを受けたという。
無論、こんなことを言う人たちは例外で、ほとんどの避難者が大変な苦労をしていることは重々わかっている。しかし、自分の時間と金を犠牲にしてボランティアをしている人たちに、こうした無神経な発言がどのように受け取られるか、衝撃を与えるか、理解していないからこそ、こうした言葉が出てくる。その意識のズレに気づいていないことが、まさに「原発依存体質」の証明といえる。P205-206

こうした事実は、なんとなく風評的には伝わってくるにはくるが、ほとんど報道としては取り上げられることはない。もちろん一部の、ほんの一部のことではあるのだろうし、もし小泉首相時代のように自己責任論が蔓延している風潮であったならが、ほんの一部の事象から被災者に対して、様々な非難、罵詈雑言が飛び交ったかもしれない。
とはいえ福島県民は原発事故の一義的な被災者、被害者ではあるのだが、原発を誘致し、様々な交付金等や電力会社からの寄付金等で潤ってきたという事実もあるのだ。
そのうえで補償金、義捐金がバラマキ的に使われることによって、それに依存するという現象ももちろん起こりえるということなのである。税金はかくして有効に使われることがない。それは日本の行政を担う人々に、血税という意識がほとんど欠如しているからだ。人様の金を自由にできる、だから平気でバラマキができる。誰もその使途についての責任をとることもなくだ。

6月に入ると、福島県内にも仮説住宅ができたが、南相馬市のように、足りなくて応募倍率が7倍を超えるところがあるかと思うと、入居する人がいなくてガラガラの仮説もあるという不均衡現象が起きた。
仮説住宅が余るという現象は福島県以外でも起きていた。
釜石市では、3146戸のうち2割に相当する700戸が余る見通しだと市議会で報告された(「岩手日報」2011年7月29日)。
震災直後は、仮説住宅が足りないと大騒ぎしていたが、要するに日本には普段あまり活用されていない民間賃貸住宅や公共保養施設がかなりあったのだ。P188

確か仮設住宅の建設の遅れもまた菅首相の無能のためという攻撃が野党からあがっていたのを記憶している。政府や民主党政権がどうのという以前に、施策を計画、執行する行政組織と官僚の間に、公的な投資の有効活用といった視点がまったくないことの問題なのだろう。とりあえず上モノ、ハコモノから入る発想。仮設住宅についても結局それが本質なのだろう。

福島は、放射性物質という見えない汚物で、土、空気、水を汚されてしまった。
裸になって汚れを落としたくても、普通の泥汚れのように簡単ではない。放射性物質は水で流しても燃やしても消滅することはない。移動・拡散するだけだ。
水で洗い流せば、使った水が新たに汚染され、別の場所に放射性物質を運ぶ。
消却すれば、体積が減った分、焼却炉の中に高い濃度で放射性物質が残る。
セシウムが付着した表土を剥ぎ取ればその地面の線量は下がるが、表土だけ集めた土はさらに高い放射線を発する汚染源になる。P302

「除染と言えば聞こえはいいが、放射性物質は消滅しないのだから、できることは「移動」か「拡散」しかない。
「移動」は「ここにあるよりは他にあったほうがマシだから移動させる」という発想。
「拡散」は、1ヵ所に固まってあると怖いので、なるべく薄く広く拡散させて、リスクを下げてしまいましょ」という発想。P303

これがある意味いちばん堪えた話である。そうなのだ、放射性物質はそれぞれ半減期に差はあっても放射能自体はなくならないのだ。汚染された地域の除染が急務であるとはよくいわれることだが、結局のところそれは本書でいうように「移動」か「拡散」でしかないのだ。
そうであっても、やはり子どもの健康を守るためにも、子どもたちが生活する場は徹底的に除染しなければならない。しかし移動させられた放射性物質はどこへもっていく。1F周辺の高線量に汚染された地域に、中間処分施設という便宜的な名前をつけたまま、最終処分場にすることが現実的だなどと、訳知り顔で語られることが多い。私もそうしたことをこの場でも書いていたようにも思う。
しかし福島で実際に生活する人々からすれば、なんともやりきれない、そしてとうてい納得てきない話である。いったん原発事故が起きてしまった以上、永久に汚染されてしまった場所、土地、環境の中で、やむなく生活を続けなくてはいけない。それが裸の福島の現実なのである。
福島という地は少なくとも人の一回生のスパンで考える限りでいえば、ほぼ永遠に汚染されてしまった。いやその周辺地域、広義での関東全域も低線量とはいえすでに汚染されてしまった。我が祖国の大地の何パーセントかが見えない放射能によって汚染されてしまったという現実。安っぽい、あるいは感傷的なナショナリズムかもしれないが、そのことにむしょうに腹がたち、また悲しい思いを抱かざるを得ない。本書の内容はえらく重い。しかしそれをきちんと認識することが必要なのだとも思う。
本書は、震災と福島第一原発事故についてきちんと考えるための必読書であると私は思う。