地震についてと3.11の記憶

 遅めの夕食を終え、そのままダラダラと飲んでいるときにいきなりやって来た。

 自分はダイニングのテレビで多分Netflixの映画を観ていた。妻はリビングでテレビを見ていた。いきなりそっちのテレビの方から緊急地震速報のニュースが流れる。自分も慌ててNetflixを終了させて地上波にする。ゆさゆさと軽目の揺れ。それでもテレビから何度も緊急地震速報が流れる。それから妻のスマホから例の緊急地震速報のチャイムが。しかしテレビの「チャラン」もスマホの「キュル、キュル」もとにかく心臓に良くない。

 そしてあの大きな揺れが。これはデカいなと思って身構えた。体感的には11年前の3.11と同じような感じがした。ただ揺れている時間はあの時よりも短い。幸いなことに家具類やのっているものが落ちたりも特になかった。後で調べると、自分の部屋も妻の部屋も大丈夫だった。子どもの部屋では机の上の本棚からファイル類が盛大に落ちていた。3.11の時も棚から落ちたのはやはり子どもの部屋だった。

 テレビでは宮城や福島で震度6強との報道も。それからはずっとテレビを見ていた。津波も気がかりだったが、何よりも福島の第一原発が心配だった。止まっているとはいえ冷却水がなくなればどうなるか。しかし地震の度に原発の心配をする。それがもうデフォルトになっているような感じだ。

 余震やさらなる大きな地震のことを考えるとなかなか寝付けず、テレビを見ながら数時間過ごした。結局寝たのは4時近くだっただろうか。

 比較的大きな地震というと、どうしても3.11を思い出す。あのとき自分はおそらく人生で一番大きな地震を経験している。そして多分、これ以上の経験はないかなとか漠然に考えていた。

 地震の翌日、朝に会社に行った。徒歩5分という職住近接である。帰宅困難で泊まった連中も全員帰ったようで誰もいなかった。それから恐る恐る倉庫に入って被害を点検して回った。なぜだかわからないが家からデジタルカメラを持参していた。

 出版倉庫なので本がぎっしりと詰まっている。ピッキング棚からはあまり本を落ちていなかったが、ストック倉庫などのパレット詰みしてあるものは盛大に荷崩れを起こしていた。特にペーパーバック系が激しかった。とにかく夢中で写真を撮った。

 中には10メートル近い棚の上部から本を梱包してあるワンプが落ちて下にある事務所を直撃して天井を突き破って床に散乱しているなんてものもあった。人がいて直撃したらどうなるか。

 それから同僚に電話して、すぐに出社できる人間を集めて本の整理を二日間かけて行った。中腰、膝をついての作業で、あとで膝に水が溜まったことも覚えている。とにかく月曜からは通常の業務が最低限できるようにとそれだけを考えていた。そしてそういう体裁だけは整えた。

 しかし月曜日は計画停電、電車も止まり、とても通常業務どころではなかった。その週はとにかく計画停電の中で、どう業務を進めるか、人出は集まるかとか、そんなことで奔走されていた。しかしその間も福島第一原発では過酷な事故が続いており、二度の爆発と大量の放射能がまき散らされていた。

 3月12日の1号機の水素爆発、13日の3号機の圧力容器の損傷、14日2号機、3号機の水素爆発、15日4号機の水素爆発などなど。東日本は終わりかねない瀬戸際だった時に、自分は何をしていたのか。仕事を回すこと、会社を回すこと、計画停電をどう乗り切るか、そんなことだけに頭がいっぱいだった。

 後で聞いたことだが知人の中には、家族を西日本に疎開させることを真剣い考えて、実行する寸前まで行った人もいる。そういう時に自分は計画停電だったのである。

 それは自分にとって大きな反省点でもあった。幸いなことに廃炉を模索する福島第一原発も止まっている第二原発も危機的状況はないようだ。第一原発では冷却システムの不具合も報じられたが大きな問題ではないとのこ。ただし東電の発表は素直に信じることはできない。これまでにも後からこうでした、みたいなことが何度あったことか。

 繰り返すが、地震大国に住む我々は地震の度に原子力発電所の心配をする。多分、生きている限りそれは続くのだと思う。