高齢化社会の一側面なのかも

月初はいろいろと忙しい。まずは請求書作りと前月の会計関係の締めなどもろもろ。おまけに就業規則の見直しの最終局面の手続きなどもあり。
合間を縫って、税理士と中間納税手続き完了の話をしたり、社労とは労働保険料率変更の打ち合わせをしたり。そういや給与ソフトの設定とかもあるのか。
そんなバタバタの中で社員が一人辞めると意思表示をしてきた。50代で独身、私より1〜2歳上になるのだろうか、ずっと一人で母親の面倒をみてきている方である。辞める理由が、母親の状態があまり思わしくなく、これまで日中はヘルパーに来てもらっていたのだが、ヘルパーでは対応できないことが多くなってきたので、自身でつきっきりで面倒をみたいという。
まずその話に、生活できるのかという疑問が口をついた。相手は母親の年金も少ないながらあるし、自身も60になればわずかながら年金も出るのでなんとかなるというのだが。どうにもそれではしんどすぎるだろうと、つっこみたいところだが、あまりにも深刻な話し過ぎてそれもできない。例えば、老人病院への入院や特養などの施設を検討してはと話してみるが、そういうことは考えられない。母親を施設にいれるなんて持っての他だといわんばかりである。
もうこうなると話の持って生き方がない。自分自身のことを言わせてもらえば、現在も身障者の妻を抱えてなんとか凌いでいる。それ以前に私の場合、三十代の前半の時に90代の寝たきりの祖母の面倒を3〜4年みていたことがある。私の父親(祖母にとっては一人息子)が死んでから急速に老け込んだ祖母は、転倒しては大腿骨を骨折し、入院手術を繰り返した。最初の頃は暖かい季節には普通に生活できたが、冬になると寝たきりになる。そういうことを繰り返した。
私も当然日中は仕事に出ていたので、昼間はヘルパーを頼んだ。祖母の食事とかを作ってもらっていたっけ。その当時のつらい記憶といえば、寝たきりの祖母が布団の中で便器にした大便とかを朝回収してトイレに流すのがけっこうしんどかったかな。下半身とかもよく洗ったりしたが、これはもうある種の割り切り、ドライな感覚でいるように努めた。なまじ女性であるとか、子どもの時からよく面倒をみてくれた、可愛がってくれた祖母であるとかいう意識にたつとしんどいことになる。介護としての割り切り、これは業務であるという意識が必要だったと思っている。
それでも夜中、一人で立ち上がって(たぶんトイレに行こうと思ったのだろう)、粗相をするなんてことも続いたし、転倒して骨折ということもあった。大腿骨は両足とも骨折した。やっぱり男手で面等を見るのには限界だったんだと思う。
最終的には祖母が入院中に、福祉事務所に頼み込んで優先的に特養に入れてもらうようにだんどりをつけた。最初半年後と言われていたのだが、急に空きができたということでとんとん拍子に話しが進んだ。福祉事務所に頼み込んだときには、それこそこのままでは孫の自分まで共倒れだとまで言った。
祖母は特養に入所が決まったときには、えらく恨み言を言われたし、家に連れて帰ってくれとも懇願された。しかし私自身の生活のことも考えると、また祖母がこれ以上転倒などしないためにも、それが一番の選択だと思ったものだ。
そういう経験もあるので、親の介護とかで苦労されている人と話をするとつい経験上のことが出る。しかしそこはそれ、人それぞれなのである。特に介護している親との関係性や思い入れの深さは本当に人それぞれなので、かんたんに、あるいはドライな対応はできない。
私は自分の経験則のうえで、介護とその犠牲により自分の人生なり、可能性が失われることのしんどさを知っているつもりである。だからこそ社会資源としての制度、所謂福祉サービスを利用することでなんとか凌ぐことの必要性を話すことになる。
でも人によっては介護する相手との関係性の深さから、それは相手を見捨てることになってしまうと思い込んでしまう。もうそうなると何を言っても仕方がないことなのかもしれない。以前にも親の介護を理由に辞めていった女性もいたっけ。その方にも様々な福祉サービスの利用を勧めたけれど、親をどこかに預けるなんて考えられないと一蹴されたような記憶がある。
高齢化社会核家族化、そういう時代が連綿と続いていくなか、親一人、子一人みたいな世帯はどんどんと増えていくだろう。特別な親子関係として立ち入れないような濃密なものが一方にあり、その中で親の介護が一義的なアイデンティティとなってしまうような心性が生まれていく。これもまた今日的な有り様の一つなのかもしれないのかも。