『福島の原発事故をめぐって−いくつか学び考えたこと』

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

  • 作者:山本 義隆
  • 発売日: 2011/08/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
友人に借りたもの。病院の待ち時間で一気読みした。
みすず書房のPR誌『みすず』のために依頼された原発事故についての原稿が少し長めになったので、著者としては連載してもらえればと思って渡したという。それが単行本化されたもので、本文は90ページ足らずの小文である。
目新しい知見が満載の反原発本というわけでもないが、よくまとまっている。特に3章「科学技術幻想とその破綻」では、著者の専門である科学史をもとに西欧科学技術幻想の肥大化とその限界点としての原子力技術の問題が論じられている。本当によくまとまっている。フクシマを契機として原発問題を俯瞰するうえでは、かなりの有用性を持った本だと思う。
著者山本義隆は、予備校教師をしながら在野で物理学を中心にした科学史、科学哲学を研究している。代表作の『磁力と重力の発見』は毎日出版文化賞大仏次郎賞を受賞している。
そういう在野の学者さんということよりも、私のようなオールドな者からすると、あの、なぜかあのである、東大全共闘の議長だった山本義隆ということになる。
もともとは東大で物理学を専攻している秀才学生だった。東大大学院在学中には京大に国内留学して湯川秀樹に師事していたこともある。その学才はつとに評判で、いずれはノーベル賞クラスの仕事をするだろうと言われていたともいう。所謂将来を嘱望された研究者だった。
そうした秀才が時代のうねりの中、全共闘運動に参加し、東大全共闘議長として一世を風靡した。70年安保闘争の頃のある種のスターだった。私の本棚には当時編まれた1冊の本がある。『ドキュメント東大闘争 砦の上にわれらの世界を』東大全学共闘会議編(亜紀書房刊)。初版は1969年4月だが、私が持っているのは1977年5月第2版1刷のものである。たぶん大学に入った当初に買ったものなんだろうな。今となってはどういうタイミングで買ったのかすら覚えていない。
この本の序文を書いているのが山本義隆である。「状況の中の個人は状況を自己の内部にも共有している。弾劾の対象はまずもって自らの内に見出され、告発の論理はなによりも自己の内部に凝縮される。」からはじまる、70年安保前後にあってはけっこう有名な文章というか、テーゼだったようにも記憶している。左翼かぶれの小僧の心をワクワクさせるようなものがあったんだな、これが。今となっては、やれ「内なる敵」だのなんのというのは、どうにも稚拙というか、青臭い論説だなと思う。それ以上に、この手の論理をぶんぶん振り回すことで、やれ総括だのなんのというお馬鹿で、やがて悲しくも滑稽な仲間殺しとかに発展していったのかもしれないなとも思う。
この山本義隆の序文は、「われわれは連帯を求めて、孤立を恐れない。力及ばずに倒れることを辞さないが、力を尽くさずにくじけることを拒否する。」という言葉で締めくくられる。ストイックなこの言説に当時は本当にしびれたものである。
さてと山本義隆についてのウンチクはどうでもいい。『福島の原発事故をめぐって』についてだ。第1章で山本は、日本における原子力発電推進の深層底流を「潜在的核兵器保有国の状態を維持し続け、将来的な核兵器保有の可能性を開けておくことにあるとする。それが戦後日本の支配層に連綿と引き継がれてきた原子力産業育成の目的なのだということを、当時の首相岸信介等の発言から読み解いていく。
そして山本が導きだす結論は、原子力発電の推進、核燃料サイクルの開発が、「産業政策の枠を超え」る「外交、安全保障政策」の問題として位置づけられているため、原発の経済的収益性や技術的安全性が二の次、三の次の問題されてきたということだ。それが福島原発事故の背景にあるということなのだろう。
3章の最後で山本は、日本における原発推進派が行ってきたやり方を「原発ファシズム」と規定する。そのまま引用してみる。

業種によっては産業にたいする国家的統制や指導が必要な場合もあるだろうし、とくに「海外からの規制緩和要請」がつねに正しいとはかぎらない。規制は、本来は過剰な市場競争から社会的な弱者を保護するためのものであり、そのかぎりで必要とされる。
しかし、市場原理にゆだねたならばその収益性からもリスクの大きさからも忌避されるであろう原子力発電にたいする異常なまでの国家の介入と電力会社にたいする手厚すぎる保護は、弱者保護の対極にあり、きわめて由々しい結果をもたらしている。実際、それでなくとも強力な中央官庁と巨大な地域独占企業の二人三脚による、そお危険性からも政治的観点からももともと問題が多く、国民的合意も形成されていない原子力開発への突進は、ほとんど暴走状態をもたらしている。税金をもちいた多額の交付金によって地方議会を切り崩し、地方自治体を財政的に原発に反対できない状態に追いやり、優遇されている電力会社は、他の企業では考えられないような潤沢な宣伝費用を投入することで大マスコミを抱き込み、頻繁に生じている小規模な事故や不具合の発覚を隠蔽して安全宣伝を繰り返し、寄付講座という形でのボス教授の支配の続く大学研究室をまるごと買収し、こうして、地元やマスコミや学界から批判者を排除し翼賛体制を作り上げていったやり方は、原発ファシズムともいうべき様相を呈している。